「盤上の夜」(宮内 悠介) [SF]
第33回日本SF大賞受賞。直木賞候補にもなり、「SFが読みたい2013年版」の第2位、と注目せずにはいられない作品なので読んでみた。
私は将棋も囲碁もやらず(出来ず)、たまにPCでオセロをやる程度なので、ディテールのニュアンスを掴み損なっている部分が大きいのだろうが、それでも面白かった。この作品群は、盤ゲームをめぐる極端な奇想にあふれているが、この盤という小宇宙上でなされる知的な営みはその奥に広大で精妙な世界を持っていることはわかるので、この手の作品はもっと書かれていい筈では?と思った。もっとも“SF”と呼ぶには幻想あるいは奇想小説寄りだと思うけれど。
(以下少しネタバレあり)
「盤上の夜」(囲碁の話)第1回創元SF短編賞・山田正紀賞受賞作。
なんとも壮絶な話。中国で拐かされて性奴隷にするために四肢を切断された女性・由宇が、囲碁の能力に目覚め、救い出された後棋士としてデビュー・ブレイクする。
注目すべきは、その異様な囲碁観。盤を触覚で認識するという常人には経験できない別次元のクオリア、この描写が素晴らしい。
「人間の王」(チェッカーの話)
チェッカーのチャンピオンを40年も続けた天才の男(実在)がコンピュータソフトと対戦し、引き分けて、引退。
対戦ソフトの進歩をたどり、機械との勝負の意味が、ゲーム主体の存在論として考察される。ゲームそのものの〈完全解〉が発見され、ゲームとしての〈終わり〉が来る。そして結末の意外な種明かし。
「清められた卓」(麻雀の話)
統合失調症からシャーマンになって新興宗教教祖になった女が打つ麻雀は神がかりか超能力か奇術かわからぬ不思議な力を持っていて、白鳳位戦(←実在?)決勝に臨む。一癖あり過ぎ(サヴァン症、前向性健忘、転移性恋愛)の他の参戦者を巻き込んでのとてつもない展開。公式戦なのに闇に葬られ無かったことにされ牌譜さえ無い。
その過程を再現し謎が明かされる、のだが、いまいちぴんとこない。鴉との交流、治療としての対局、などやや釈然としない感が残った。
「象を飛ばした王子」(チャトランガ・古代インドのゲーム)
一転して古代インドを舞台にした歴史小説風味。主人公は釈尊の(出家で捨てた)息子。その知力が創りだした、チェスや将棋の原型となったという盤上ゲーム、チャトランガ成立の経緯を王子の内面を通して教養小説的に描く。政治に済民の道を求める生き方と、仏教との葛藤。悟りを開いた後の釈尊がここで描かれたような政治的な働きをしたのかどうか疑問が残ったが、参考文献は豊富に載っている。
「千年の虚空」(将棋の話)
近未来。孤児の兄弟と引き取った資産家の娘(境界性人格障害・ニンフォマニア)との3人の奇妙でおぞましい共同生活。兄は政界へ、弟はプロ棋士へ。〈ゲームを殺すゲーム〉を志向する兄は政治的野心を持ち、量子コンピュータによる「あらゆる歴史史料データをノード化したネットワークを構成し、量子蜜蜂が評価して一つの〈正しい歴史〉に収斂させるシステム・量子歴史学」を提唱し立ち上げる。一方弟は「千年の将棋の歴史を圧縮して、神を再発明したい」というモチベーションから駒との対話にふける。
量子コンピュータによる将棋の〈完全解〉(ってのがどういうのかよくわからない。必勝法か?)が量子歴史学研究の過程で発見され、両者が対決…。
と、奇想天外な大ネタが展開し、途方もない境地にまで至る。奇想極まれり。
「原爆の局」(囲碁の話)
第1話(だけでもない)の後日談(書き下ろし)。昭和20年8月6日広島で行われていた本因坊戦(原爆炸裂後も飛び散った石を集めて再開し続行)の棋譜。それを第1話の女性棋士・由宇がホワイトサンド砂漠(最初の核実験場)へ持って行き、iPad(多分)で再現する、という劇的なストーリー。
それを追いかけて由宇と対局する男。2人の対決は互いに外し合い、逸脱した難解な展開となる。観戦する記者の脳裏をあらゆる光景が去来する(パノラマ視現象?)。この辺り、詩的な羅列でちょっとわかりにくい。映画「アルタード・ステーツ」の場面を思い出した。
>碁は読めない。運が9割、技術は1割。
という意外な言葉。その一方で、
>碁は9割の意志と1割の天命
とも独白する由宇。
碁の限界を追究し、新たな地平は「次の人類に…」とつぶやく由宇。
短篇集最後の締めとして書かれているわけだが、壮大な結末を意図しつつも、あまりに深遠な世界構築にまで広げた風呂敷のたたみ方としてはいささか不完全というか説得力に欠ける(私の読解力がないという可能性の方が高いか?)、力不足の感を持った。それでも、作者の意気は感じる。頭を振り絞って筆圧最大で書いた作品、という印象だ。ただし、この作家の得意分野はこういう盤上ゲームに限定されてしまわないか?という懸念は残る。入れ込み方が半端無いので。それでも、この方向でより掘り下げていってもらうのもいいかも。
私は将棋も囲碁もやらず(出来ず)、たまにPCでオセロをやる程度なので、ディテールのニュアンスを掴み損なっている部分が大きいのだろうが、それでも面白かった。この作品群は、盤ゲームをめぐる極端な奇想にあふれているが、この盤という小宇宙上でなされる知的な営みはその奥に広大で精妙な世界を持っていることはわかるので、この手の作品はもっと書かれていい筈では?と思った。もっとも“SF”と呼ぶには幻想あるいは奇想小説寄りだと思うけれど。
(以下少しネタバレあり)
「盤上の夜」(囲碁の話)第1回創元SF短編賞・山田正紀賞受賞作。
なんとも壮絶な話。中国で拐かされて性奴隷にするために四肢を切断された女性・由宇が、囲碁の能力に目覚め、救い出された後棋士としてデビュー・ブレイクする。
注目すべきは、その異様な囲碁観。盤を触覚で認識するという常人には経験できない別次元のクオリア、この描写が素晴らしい。
「人間の王」(チェッカーの話)
チェッカーのチャンピオンを40年も続けた天才の男(実在)がコンピュータソフトと対戦し、引き分けて、引退。
対戦ソフトの進歩をたどり、機械との勝負の意味が、ゲーム主体の存在論として考察される。ゲームそのものの〈完全解〉が発見され、ゲームとしての〈終わり〉が来る。そして結末の意外な種明かし。
「清められた卓」(麻雀の話)
統合失調症からシャーマンになって新興宗教教祖になった女が打つ麻雀は神がかりか超能力か奇術かわからぬ不思議な力を持っていて、白鳳位戦(←実在?)決勝に臨む。一癖あり過ぎ(サヴァン症、前向性健忘、転移性恋愛)の他の参戦者を巻き込んでのとてつもない展開。公式戦なのに闇に葬られ無かったことにされ牌譜さえ無い。
その過程を再現し謎が明かされる、のだが、いまいちぴんとこない。鴉との交流、治療としての対局、などやや釈然としない感が残った。
「象を飛ばした王子」(チャトランガ・古代インドのゲーム)
一転して古代インドを舞台にした歴史小説風味。主人公は釈尊の(出家で捨てた)息子。その知力が創りだした、チェスや将棋の原型となったという盤上ゲーム、チャトランガ成立の経緯を王子の内面を通して教養小説的に描く。政治に済民の道を求める生き方と、仏教との葛藤。悟りを開いた後の釈尊がここで描かれたような政治的な働きをしたのかどうか疑問が残ったが、参考文献は豊富に載っている。
「千年の虚空」(将棋の話)
近未来。孤児の兄弟と引き取った資産家の娘(境界性人格障害・ニンフォマニア)との3人の奇妙でおぞましい共同生活。兄は政界へ、弟はプロ棋士へ。〈ゲームを殺すゲーム〉を志向する兄は政治的野心を持ち、量子コンピュータによる「あらゆる歴史史料データをノード化したネットワークを構成し、量子蜜蜂が評価して一つの〈正しい歴史〉に収斂させるシステム・量子歴史学」を提唱し立ち上げる。一方弟は「千年の将棋の歴史を圧縮して、神を再発明したい」というモチベーションから駒との対話にふける。
量子コンピュータによる将棋の〈完全解〉(ってのがどういうのかよくわからない。必勝法か?)が量子歴史学研究の過程で発見され、両者が対決…。
と、奇想天外な大ネタが展開し、途方もない境地にまで至る。奇想極まれり。
「原爆の局」(囲碁の話)
第1話(だけでもない)の後日談(書き下ろし)。昭和20年8月6日広島で行われていた本因坊戦(原爆炸裂後も飛び散った石を集めて再開し続行)の棋譜。それを第1話の女性棋士・由宇がホワイトサンド砂漠(最初の核実験場)へ持って行き、iPad(多分)で再現する、という劇的なストーリー。
それを追いかけて由宇と対局する男。2人の対決は互いに外し合い、逸脱した難解な展開となる。観戦する記者の脳裏をあらゆる光景が去来する(パノラマ視現象?)。この辺り、詩的な羅列でちょっとわかりにくい。映画「アルタード・ステーツ」の場面を思い出した。
>碁は読めない。運が9割、技術は1割。
という意外な言葉。その一方で、
>碁は9割の意志と1割の天命
とも独白する由宇。
碁の限界を追究し、新たな地平は「次の人類に…」とつぶやく由宇。
短篇集最後の締めとして書かれているわけだが、壮大な結末を意図しつつも、あまりに深遠な世界構築にまで広げた風呂敷のたたみ方としてはいささか不完全というか説得力に欠ける(私の読解力がないという可能性の方が高いか?)、力不足の感を持った。それでも、作者の意気は感じる。頭を振り絞って筆圧最大で書いた作品、という印象だ。ただし、この作家の得意分野はこういう盤上ゲームに限定されてしまわないか?という懸念は残る。入れ込み方が半端無いので。それでも、この方向でより掘り下げていってもらうのもいいかも。
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