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「縦に書け!――横書きが日本人を壊す」(石川 九楊) [言葉]

 近年の日本人の劣化(少年による殺人事件や無縁社会化など)の一因は横書きの横行によるとする、書家である著者の警世の書。もともとは2005年にハードカバーで刊行された本に加筆して新書化。

縦に書け!――横書きが日本人を壊す(祥伝社新書310)

縦に書け!――横書きが日本人を壊す(祥伝社新書310)

  • 作者: 石川 九楊
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2013/02/02
  • メディア: 新書
 言語力や漢字力が衰退し、そこから社会的幼稚化、稚戯化の時代になった、と警鐘を鳴らしている。とだけ聞くと随分強引な極論に聴こえるかもしれない。
 以前、この書家の著書「筆蝕の構造」を読んだことがある。その時は筆で文字を書くときの物理的→生理的→精神的次元に及ぶ有機的なメカニズムの豊かさについて詳述されていて感心したものの、ワープロパソコンに対するやや偏狭と思える批判にちょっと引いた記憶がある。
 書の専門家の自己中心的な、自分の得意分野からの視点に偏った(いわゆる専門バカ的な)見方を押し出しすぎのような印象だったのだ。「活字は生きていない!」と言わんばかりだったので、〈手書き至高〉を言うのならなんで原稿そのものを写真に撮って出版しないのか?と反発を感じたものだ。
 だが今度の本は広く社会的文化的状況寄りに意見を述べており、視野は広がりうなずける点も多い。

 「日本人の劣化」とは少年少女による凶悪殺人事件に象徴的に表れている、とする。酒鬼薔薇事件や、特に佐世保小学生女児同士の殺人事件が意識されている。その背景として、
●行き過ぎた市場主義のもとでの価値の不定・浮動化が進行
●パソコン、ケータイ、インターネットといった現代商品の氾濫の下での社会的抑制力の低下
●言葉が力を失った
 例の「言語力は衰退しました」と共通する見方だろう。
>かつては〈貧乏〉によって、真剣に勉強し、勤勉に働き、ルールや身の処し方もわきまえ、家族の結びつきは強く、地域内相互扶助、コミニュケーションの密度が高いなど、「貧乏の教育効果」があったが、それは失われた。
 ←概ね同意。しかし、主観的情緒的な文章で客観的実証的でなく、むしろ印象論的な記述なので(なにしろ参考文献リストが無いのだ。つまり論文と言うよりはエッセイの部類に入る)、読む人によって説得力は違ってきそうだ。
 そういう手法の点で異なるが、やはりIT技術の悪影響を考える本として、「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」と通じるところがある。また論点も、あちらでは一般に「読む」方に力点が置かれていたが、こちらは「日本人が書く」方についてである。

 佐世保の事件は特にショックを受けたらしく、その電子コミュニケーションの問題が後で何度も考察されている。

>書くことと打つことは違う。
>書く事は紙との摩擦、筆の運びの筋肉運動、など身体の刺激膨大なアナログ情報の脳へのフィードバックがなされる。紙という空間の持つ「天と地」の宇宙構造で現実世界を象徴する表現空間となる。

 ←この辺はわかりやすい説明。書家の面目躍如といったところ。

>かな漢字変換で他の候補が出てきて思考に混乱をもたらす。キーボード上を指が右往左往する事は身体的錯乱も招く。
 ←変換の問題は確かにそうだが、「右往左往」はこの著者の個人的なキーボードへの不慣れ・忌避による偏見ではなかろうか? 習熟すると反射的に無意識に非常に高速・的確に打鍵できるので思考の妨げにはならない筈である。

>パソコンは軍事目的技術の廃物利用から生まれた。
 ←というのはちと違う。インターネットは確かにARPAという米軍のシステムが起源だが、「廃物」ではないし、パソコンは西海岸のヒッピー文化・カウンターカルチャーの土壌から生まれ、大企業や政府のものだったコンピューターを個人で使えるようにしたものだ。

>最近の新聞記事内容の多くが目に見えて中身を薄めてきています。不十分なデータのような記事が多く、また独りよがりで書いている記者だけが楽しんでいるようなコラムもよく目につきます。軽くて味の薄いパソコン文体でデータとして処理されている。
 ←新聞の変化はあまり意識的に追っていない(と言うよりあまり読まなくなった)ので、はっきりとわからないが、そういう傾向はあるかもしれない。(新聞で<不等号括弧>を見かけると頭に血がのぼることはある。)

>人間の文明や文化は文字を「書く」という行為によって蓄積されてきた。
 ←これはその通りで、重い歴史だと思う。

>書く際には、紙の上で動いている筆記具の尖った先端から一点一画を通して戻ってくる微妙に味わいの異なる感触があり、それを感じ取りその感触とのやりとりを楽しみながら言葉を紡ぎ出す、それが文字を書く営みである。
 ←このたたみかけるように〈筆蝕〉のダイナミズムを説くときの筆の冴えはさすがである。

>現代の子どもたちが精神の制御不全に陥り、すぐにカッターナイフで人や動物など切り裂こうとするのは、戦いと癒しの力を同時に持つペン=筆記具が活き活きと働く姿を日常生活の中に失っているからではないかと憂慮する。
 ←言いたいことはわかるんだけど、やや飛躍がありそう。特殊と一般、状況・条件の複雑さなど多様な要因を単純化しすぎではないか?

>縦書きを横にするにすることは文字も文も文体も日本語のあり方が変わってしまう。縦に書くときは自動漏出的な表出をやめ、耐え踏みとどまる力「自省」や「自制」が生まれてくる。
>ひらがなは縦書きのために作られており、それで自然につながって書けるのに、横にすると中の筆の運びが壊れてしまう。(図解入り)

 ←この辺はあまり考えてなかった。もっともな指摘。

>チャットでなく手紙で交換していればあんな悲惨な(佐世保の)事件は起こらなかった。
>創造は、手書きの(手間の多さを伴う)制御と共にある。
>パソコンではノリだけで平気で言えてしまう。その結果喚き散らすような話し言葉を相手に通信してしまう。

 ←確かにネット上のトラブルは〈キー入力の暴走〉によって誤解が拡大再生産されることによるものが多いことはパソ通時代からよく見ている。

>行き過ぎた市場化と行き過ぎた通信化が現在の犯罪を誘発する元凶である。
>私は覗いた事はありませんが、いわゆる「2ちゃんねる」に代表される掲示板における言葉の暴走は目に余ると言う以上におぞましいもののようです。

 ←この辺ややアバウトな予断に見える。結果的には当たってるとは思う(「ネトウヨ」現象もこの機序が関わっているだろう)が、伝聞(それはフィルタによるバイアスがかかっている恐れがある)に頼っての論旨展開には危うさも感じる。

>横書きを主にしているために、小学生から大学生の7割が鉛筆を正しく握れない。(写真付き)
 ←これには驚いた。これでは以前「箸の正しい使い方」で「上の箸は鉛筆を持つように」とだけ書いたのが不適切になってしまう。(後で直さなくちゃ!)

 縦書と横書きでは、書く内容の雰囲気に違いが生じるというのは意外な指摘だった↓。 >大学生の実験で、結果として「縦書きのほうが書きやすい」という人が圧倒的だった。
>縦書きの方が、真面目である・論文のような・である調・難しい・客観的・締まった文体になる。
>横書きでは、汚れないですむ・ます調になる・感想文的・私的・カタカナローマ字が書きやすい。
>パソ書きでは、エンタメ風・明るい展望・結びでまとめられず「…」が多くなる。


>箸や筆の持ち方は単に躾や習慣にとどまらず、物事を〈掴む・攫む・抓む〉、また把握するという精神の問題にもつながっている。
 ←箸とのアナロジーが出てきて、我が意を得たり!

 「β波が減る」といった「ゲーム脳」の考えを援用しているのだが、ここは新書判では直すべきだったろう。すでに誤りが指摘されているし。

>旧来のゆったりとした日常生活の余裕と手ごたえを大事にすべきだ。
>テレビは幼児の言葉の発達を妨げる。
>習字教育で美意識を継承せよ。

 ←この著者の古き良き時代を懐かしむノスタルジーから(とばかりも言えないが)現代の電子機器を目の敵にするスタンスは、いわゆるひとつの「正論 (そうは言っても現実はそうもいかないでしょ!)」的な弱さを持つのではないか?

 パソコンなどに対して相当根に持っていて、因循で頑迷固陋な態度にも思えた。あんたはラッダイトか?と。すると、それを自覚してか、↓
>(IT機器)批判をすると、あたかも19世紀のイギリスで起きたラダイト運動を想起される方がいらっしゃるかもしれません。しかし、生活上必ずしも必須でないパソコンやケータイ、インターネット等が日常生活の中で異常に突出した位置を占めることの弊害を主張しているのです。……実務的な分野で使われることは当然ですが、ただ一般の日常生活に入り込むこと、とりわけ子どもの世界に入り込むことの愚は避けるべきです。
…と書いている。にわかには承服しがたい。実際これなくしては生きていけないくらいの心と身体になってしまって入る私なので。とは言え、私の問題意識と重なるところはある。私も前から「義務教育終了前にパソコンは不要、むしろ有害」というのが持論で、ろくに字も書けないうちからパソコンで入力することに慣れてしまうべきではない、と思っているのだった。

 この本、今、全ての日本人が読んで考えるべきテキストではないかと思う。

 この記事を書くにあたって、メモやコメントなどの草稿をまず紙に手で縦書してみた。確かに普段ついやってしまう横書きより書き易かったかもしれない。それをSiriでテキスト化し、EvernoteでiMacに移動し、エディタ上で編集する作業を行った。
 編集局面になると、やはり電子化されたテキスト操作の方が紙よりも優位なことは否定しがたい。誤字や言い回しを直したり、追加削除したり、パラグラフを移動したりの作業は紙よりもスクリーン上のほうが圧倒的に効率が良い。著者石川氏はまさに、その効率を追い求める事よりも悠然としたゆっくりな思考の豊かさを強調するのだけれど、そういう営みを経験していない氏に公平な評価はできないのではないか?という疑問は生じる。スクリーン上で脳内と対話しつつ、一見脈絡のない単語の羅列に手を加え、発想を膨らまして行く、という経験を氏はしていないのだから、いささか不正確で曖昧な議論になってしまうのではなかろうか?

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