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「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(開沼 博) [ノンフィクション]

1984年いわき市生まれ(つまり現在28歳)の著者(社会学専攻)が、東京大学学際情報学府の修士論文として、3.11以前に提出したものである。地味な研究のはずが、原発事故によってにわかに脚光を浴びることになった。
 大部な本で読み終わるのに1週間もかかってしまった。

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

  • 作者: 開沼 博
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2011/06/16
  • メディア: 単行本

 一般に言われる〈原子力ムラ〉は中央の政官産学利益共同体だが、この本では福島の地元の「原子力ムラ」の成立過程について、明治以来の日本の近代化史をふり返りながら、地方と中央の関係の変遷をたどる。フィールドワークで聞きとり取材を重ね、さらに膨大な参考文献に当たって思索を深めて書き上げた大変な労作で、「修士論文」の域を遥かに越えている。

 論文の成り立ちからして当然だろうが、冒頭で長々と研究方法論が展開・説明される。
 ミクロな視点(虫の目)からの観察検討を通して政治経済のマクロな動きの中に位置づけつつ、中央と地方との相克に焦点を当てて照らし出す、という方法である。こうして原子力ムラを分析するのは斬新で、とても有効な視点だろう。

 そして導かれる概略は
1)1895〜1945 外ヘのコロナイゼーション
  資源や経済的格差の利用を目的として対外的な植民地化推進。
2)1945〜1995 内へのコロナイゼーション
  上の失敗を受け、「対内的な植民地化」。地方に外地が担ってきた機能を求めて植民地化する。
3)1995〜 自動化・自発化されたコロナイゼーション
  成長終焉と新自由主義・グローバル化が相俟ってなされた植民地化の完遂のもとにある自動的かつ自発的な服従(addiction)を前提に権力が作動。

 見事な研究成果で、得心のいく整理である。原発に関して、単純な推進か単純な反対だけでは割り切れない、あまりにも根深い日本近代100年以上に渡る経緯があってこの事態を迎えていることが分かる。
 この構造は強固なものではあるが、基本的に隠蔽や差別抑圧の上に成り立っており、もはや破綻は明らかで、文明史的な転換点に来ているということは感じた。今後の展開は困難なものになるだろう。著者のその意識が垣間見える。
 文中頻出する「愛郷心」というキーワード。これこそが、ムラの原発を受容するポイントだったわけだが、著者の中にも(もう一段高い)「愛郷心」があってこその、研究(のみならず思索)に思える。

 忘却は繰り返された、と著者は言うが、事故収束に何十年、何百年かかるかわからない以上、今回ばかりはいくら厭でも「忘却」は出来ない。果たして日本人はそんなに非ニュートン的な長期間耐えられるだろうか?
タグ:原発
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