「ドン・キホーテの末裔」(清水 義範) [小説]
清水義範の小説は25年以上前に「国語入試問題必勝法」「永遠のジャック&ベティ」「蕎麦ときしめん」などのパスティーシュ作品に一時期相当ハマってたくさん読んだのだが、その後めっきりご無沙汰していた。その間もコンスタントに小説やノンフィクションなど旺盛な執筆活動を続けていたのは知っていたが、読んでいなかった。若干面白みが薄れたような気がしていたのだ。
久々に読んだのは、文庫化されたのを書店で見かけ「面白いかも?」と図書館に予約してハードカバー(2007年刊)の方で読んだ(初出は筑摩書房のPR誌「ちくま」に2005〜6年に連載)。
掲載誌に書くこと自体がストーリーの根幹に据えられているという初めから「こっこれは尋常ならざる展開になるに違いない」と思わせた。
「ドン・キホーテ」というパロディ文学の嚆矢にして金字塔の存在(その成立過程についても詳しく文学誌的に調べて書いてある)に魅せられ、パロディーという形式をライフワークとしている著者自身が主人公で、文学観・小説観で対立した作家(この人もセルバンテスに入れ込んでいる)との確執や編集者とのやり取りなど「文壇」内幕的要素も入っていて、いかにもリアルである。つまりノンフィクション的な趣向で、作家という人種の生態や仕事(執筆)の進め方、その心理が描かれ、私小説的な印象も与えるのだが、いやいやそれも含んで、作中作の中のさらに作中作という入り組んだ複雑な入れ子構造の物語が進行し、セルバンテスも登場し挙句の果てはドンキホーテ本人までもが登場する、そういう〈パロディのパロディのパロディ〉でもあり、〈超虚構〉でもあり…、ここまで錯綜した小説をクライマックスでを一体どう収拾するかと危ぶんだが、あっさりストンと着地した。
それには若干肩透かしを食らった感はあり、こういうのの終わり方は、やや中途半端で曖昧なものしかできないのかなあ?という印象はある。メタフィクションというのは往々にしてこんな終わり方しか出来ないのかも?と。
いや、これは作品の広がりがリアルをも侵食し、その日常性の中に溶け込み、いずれ回収されてしまうという宿命を示唆するものかもしれないな、などと思った。
久々に読んだのは、文庫化されたのを書店で見かけ「面白いかも?」と図書館に予約してハードカバー(2007年刊)の方で読んだ(初出は筑摩書房のPR誌「ちくま」に2005〜6年に連載)。
掲載誌に書くこと自体がストーリーの根幹に据えられているという初めから「こっこれは尋常ならざる展開になるに違いない」と思わせた。
「ドン・キホーテ」というパロディ文学の嚆矢にして金字塔の存在(その成立過程についても詳しく文学誌的に調べて書いてある)に魅せられ、パロディーという形式をライフワークとしている著者自身が主人公で、文学観・小説観で対立した作家(この人もセルバンテスに入れ込んでいる)との確執や編集者とのやり取りなど「文壇」内幕的要素も入っていて、いかにもリアルである。つまりノンフィクション的な趣向で、作家という人種の生態や仕事(執筆)の進め方、その心理が描かれ、私小説的な印象も与えるのだが、いやいやそれも含んで、作中作の中のさらに作中作という入り組んだ複雑な入れ子構造の物語が進行し、セルバンテスも登場し挙句の果てはドンキホーテ本人までもが登場する、そういう〈パロディのパロディのパロディ〉でもあり、〈超虚構〉でもあり…、ここまで錯綜した小説をクライマックスでを一体どう収拾するかと危ぶんだが、あっさりストンと着地した。
それには若干肩透かしを食らった感はあり、こういうのの終わり方は、やや中途半端で曖昧なものしかできないのかなあ?という印象はある。メタフィクションというのは往々にしてこんな終わり方しか出来ないのかも?と。
いや、これは作品の広がりがリアルをも侵食し、その日常性の中に溶け込み、いずれ回収されてしまうという宿命を示唆するものかもしれないな、などと思った。
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