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「千の風になって」という歌について [身辺雑記]

遅まきながら、今大ヒットしていると言うこの歌を聴いた。
 霊魂を信じない私でも素直に感動した。素晴らしい歌である。
 この歌には、大事な人を失って悲嘆にくれる人にとっての大きな癒し効果があるだろう、と思われる。
 ただ、今の私はそういう状況にはなく、2年前に父を亡くしたものの、ほぼ天寿を全うしたので、寂しさはあるが悲痛の極とは言い難いのだが。
 だからこれから書くことは、やや距離を置いた客観的、分析的な話になる。つまり当事者から見れば、いらぬ詮索、外野の声に過ぎないので、出来れば読んで欲しくない。

>私のお墓の前で 泣かないでください
>そこに私はいません 眠ってなんかいません

 この冒頭は衝撃的である。だったら墓って何なのさ?! 全国の墓地のある寺の住職や霊園経営者は目を剥いたんじゃないだろうか? 営業妨害じゃないのか?と……なんてことはどうでもよくて、これは極めてしっくり来る話である。死後、あんな冷たく暗い土の中に永久に閉じ込められっぱなしになるとしたら、とんでもなく恐ろしい話だ。そうではなくて、
>千の風になって
>あの大きな空を吹き渡っています

 このイメージは壮大で、すがすがしく自由で、美しい。大体考えてみれば、遺体は火葬にふされ、骨以外は全て大気中に煙となって飛散するわけだから、「風になる」というのは科学的にも理にかなっている。然り、万物は流転する、のだ。ただ、続く歌詞で、
>秋には光になって 畑にふりそそぐ
>冬はダイヤのように きらめく雪になる
>朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
>夜は星になって あなたを見守る

となると、雪や鳥に姿を変えるのはいいとして、太陽や星の光になるというのは、地球の生命圏を逸脱し、飛躍しすぎている、とも言える。
 ということは、この歌は別に〈物質循環〉という理論を歌っているのでは毛頭ない、ということだ。万物に魂が宿るというアニミズム的世界観とも言えるが、個人(故人)の霊魂の不滅という慰撫の要素が拭えないのである。
 しかし、愛する人を亡くしたばかりの人にとっては、その「個」の名残りはまだ強烈であるから、様々な身近な自然現象の中にその「個」を仮託するという認識法は、いわば死の受容の一過程として、決して排すべきものではなく、むしろ良いことだと思える。
 つまり、この歌の境地は、愛する人の喪失の悲嘆から脱し、忘れるのではなくそれを受容し、残された者が肯定的積極的に己の生を生きて行く段階に達するよう促す、ということではなかろうか?
 そういう意味で、私はこの歌を評価する。


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もちろん

この歌はまだ聞いたことがないのですが、今度聞いてみることにします。
by もちろん (2007-02-06 02:29) 

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