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「東京自叙伝」(奥泉 光) [小説]

奥泉光という作家の作品では「虫樹音楽集」しか読んでいない。「バナールな現象」とか「シューマンの指」とか、いろいろ今までにも目についた気になる作品はあったのだが…。
 その作品の多くのタイトルがマトモでない、と言うと言い過ぎなので、極めて「ユニークで変格的」な印象がある、と言い直そう。時間があればもっと読みたい作家の一人ではある。

東京自叙伝

東京自叙伝

  • 作者: 奥泉 光
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2014/05/02
  • メディア: 単行本


先日、がんリンパ節転移切除手術のための入院のお供に持って行って、入院中に読み終えた。

 さてこの「東京自叙伝」、設定が尋常ではない。《東京の地霊》がヒトに憑依する? 何のために?どうやって?は示されない。もうのっけから偉大なるご都合主義である。地霊だからといって、「帝都物語」の加藤のように別段超自然的な術をなすわけでもない。むしろ、時代を超えた観察者といった風合いである。観察に適当な地位の人物の肩の上に乗っかって社会見物をしてるというような…。
 そうは言いつつも、東京という地霊の由来する原始性(自然)と、同時にある近代性・産業主義との併存あるいは矛盾の有り様が容易ならぬ緊張感をはらんでいる、という面もある。

 日本の明治以降の近代史の各局面で登場する、〈取り憑かれ人物〉たちに個別具体的なモデルは居るのか、知識の乏しい私にはわからない。居たとしても超一流というより二流のやや傍観者的というか脇役、良く言えば影の実力者的な、せいぜい参謀スタンスの人が多い。

 高度成長期の友成という人物の「あれオレ詐欺」的な言動の連発は面白かったが、特定の人物に全ての裏の仕掛け人を集約するのはやり過ぎというか戯画化が激しすぎやしないだろうか?

 最終章(福島第一原発作業員)は短い割に「暴走性」が高く、物狂おしさがMaxである。3.11と原発事故に向き合った作家的感性と想像力と思考の集約として〈滅びの文学〉に到達し得た、分析と怒りの発露に思える。
「成り行き上、アアなるようにしかならなかった、と申す以外に私には言葉がない」という、居直りとも諦念とも取れる発言の、どうしようもなさ、それへの作者の怒りがここに込められているように感じた。

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