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原発と「未必の故意」 [世の中]

 今回の中越沖地震で、日本の原発の危険性についてあらためて考えた。
 以前から数えきれないほどの隠蔽、データ改竄などを繰り返して来た日本の原発だが、今回の地震でさらに安全対策の不備が明らかになった。消防訓練すらしてないというのだから、あまりに杜撰と言うか、ここまで来ると「確信犯」(←この言葉の使い方は厳密には誤用だが)ではないか?という気がして来る。
 そこで浮かんだのが、「未必の故意」という法律用語である。
 「未必の故意」とは
〈実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態。刑事裁判上は、故意があるものとして裁かれる。〉
ということだが、不作為も行為のうちである。母親が幼児を放置して何日も帰宅せず遊び回って餓死させる事件が時々報じられるが、こういうネグレクトも虐待の一種であり、故意と認められるのだ。
 原発の安全対策についても、まさにこの未必の故意による不作為である、と断じざるを得ない。つまり、原発関係者は
「事故が起こっても構わない」
と思っている、と解釈するしかないのだ。
 ちょっと信じ難いのだが、事実がそれを語っている。彼らには妻も子もないのだろうけれど、随分とまた投げやりというか自暴自棄的な生き方・価値観である。彼らは言うなれば広い意味での〈核テロリスト〉の一種とさえ言える。だが、それは彼らだけにとどまるものではない。それを容認している官僚や政府、さらには有権者国民も同じ事になる。つまり日本という世界一の地震国は国家意志として、そういう選択をしているのだ。
 さて、「健康が一番大事だ。健康のためなら死んでもいい」というジョークがある。これ自体は笑える言葉の遊びだが、現実に日本の原発はこれと同じ状況ではないだろうか? 「電気をたくさん使える豊かな消費生活が一番大事だ。そのためなら国が滅んでもいい」というわけだ。
 このような過激思想を持った国民は、原発の大事故が起こった場合、「残念だが十分ありえたことがやはり起こってしまったことよ」と従容として死、もしくは塗炭の苦しみを受け入れるしかない。それは私自身を含めて浪費・贅沢三昧して来た末の自業自得なのだが、その選択に責任の無い子供たちにとって、そして過去営々として日本を築き支えて来たご先祖様たちにとっては許せるものではないだろう。


タグ:原発
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コメント 1

poemaquince

予見された事態がまさに起こってしまいました。こうなる前にもっとしつこく声を挙げておくべきでした。反省します。
by poemaquince (2011-07-16 23:56) 

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