毎日に続き、讀賣、朝日も文字サイズ拡大へ [表面積]
文書中の文字と余白の表面積比に関する考察 [表面積]
昨日〈改行〉に関する記事を書いて、コメントを貰ったところで、タイトルの問題が浮かんだ。これは「言葉」カテでなく「表面積」カテのネタではないかと思った。久々にこのネタを発見したのは望外の喜びだ。「表面積」ネタはなかなかみつからないので…。
さて、私は〈1段落1改行〉主義者である。と言うか、それが普通・一般的である。新聞記事だって小説だって論文だって、およそまともな日本語の文書は、複数(勿論単数の場合もあるが)の文からなる段落の終わりで改行し、次の段落が字下げで始まるという形式を採っている。これが定着したのは明治以降だろうが、十分長い歴史がある。
だから、私がブログに書く時もその形式に従っている。例の「見栄えを気にして段落の切れ目でもないのに行末を揃えるために機械的改行を挿入してる」伊藤蘭じゃない若戸蘭さんたちにしたところで、意図した形が幸運にも読者の側で再現された場合の見た目の改行(文章の区切りとしての)は段落の末尾にしか付けていないのだ、当然ながら。つまり、彼らは勘違いは別としてトラディショナルな書き方をしているのである。
毎日新聞のJ字 [表面積]
12月から「毎日新聞」の活字が〈J字〉という一段と大きな文字に変わった(JはジャンボのJ)。老眼気味の私にとっては読み易くなって正直嬉しい変更だ。
新聞の活字は過去何度も拡大を繰り返して来ていて、大昔の新聞(の再現サンプル)を見ると唖然とするくらい細かな文字で、ビックリする。こんな細かな字を昔は普通で読んでたのか、と。表面積比で約半分しかないんじゃないか?
ここで、思いついた仮説。
〈新聞活字のサイズは日本の高齢化率と比例する〉
などと言っても当たり前すぎるかな?
これが正しいとすると、今後も5年10年と経つにつれて、新聞の活字はますます大きくなって行き、単行本の活字サイズくらいにまでは行くんじゃなかろうか? それまで紙媒体の新聞が存続したとしての話だけれど。
ところで、これに関連して困った事態も発生した。
反転するメルカトル [表面積]
duznamakさんのブログで南極点での「北枕」回避問題という難問の話を目にして、私が思い出したのは、以前考えた「足を向けて寝られないほどの恩人が地球のちょうど反対側に居たら困る」という問題だった。地球の反対側とは、どの方向に進んでも地球を半周するとそこに到達するわけだから、どっちを向いて寝ても結局その相手に足を向けることになるからである。(別の変形バージョンとして、メッカの反対側にいるイスラム教徒はどこでも任意の方角に向かって礼拝してもOKではないか?てのもある)
もっとも、地球の表面積の7割は海だし、しかも南半球においてはさらにその比率は大きいので、そういうケースに該当する場合というのはそんなに多くないと思われるのだが。ちなみに日本全土の反対側は全てアルゼンチン沖の海の中にある(と思う)。
膝の上にモノが落ちた時の脚の開閉反応における男女差 [表面積]
私は以前(2006年2月)Yahoo!知恵袋にこういう質問を投げたことがある。
> ある推理小説で、犯人(男)が女に変装しているのを確認するために、
>探偵が、その座っている膝元へ何か物を落とすと、男は咄嗟に反射的に
>脚を閉じてしまい、見破られた、というシーンがあります。
>つまり、男はズボンを履いているので、そういう場合は脚を閉じる。
>逆に女はスカートを履いているので、脚を開いて広くして受け止めようとする。
>そういう条件反射が身に付いているのだ、という訳ですが、これって、ホント
>でしょうか? 確かに私(男)は脚を閉じるんですけど…。女性は?
とまぁ、なんとも暢気な話題ではある。シモネタだし。(考えてみると、膝に落ちてくるモノを受け止めるための面積が問題なので、これも【表面積ネタ】ではないか!)
それに対して何人かから回答があった。
>横溝正史の「壷中美人」だったかしら?
>あたしも読んだ時そう思いました。もうだいぶ前のことですがね。
>うんやっぱりヒザは閉じると思いましたね!あたしだったら閉じるな、きっと。
>スカートはいててもヒザを開くってのは抵抗あると思うんですけどね。
これで出典が明らかになった(実はこの話は友人からの伝聞で、原典を聞いていなかったのだ)ので、その感謝も含めて「ベストアンサー」に選んだのだが、他にも何人かの女性たちが答えてくれた。
>女ですが、脚、閉じますよ…;
>脚開いたりなんかしたらはしたないですし。
>スカートを履いていたところで、別に閉じても拾えますしね。
>ちなみに私はスカートを履く方が多いです。高校生なので制服で。
とか、
>その推理小説書いた人は男ですか女ですか?
>私は女性が足を閉じると思います。私の親は娘たちに、子供のときから
>「足を開いて座るな」としつけてましたから。特にスカートはいて足を開く
>なんてことは一番ありえないんじゃ・・・だって長さによっちゃ見えちゃいますよ。
などと、異口同音に否定されてしまった。
唯一の男性が、
>書名は忘れましたが、私もその小説だか随筆だかを読んだことがあります。
>なるほどな、と感じたことを覚えています。
と書いている。やはり、男はこの理論に納得してしまうのだ。
横溝正史は身近な女性に取材する手間すら惜しんで、こんな「謎解き」を机上で組み立てていた訳だ。
それにしても、スカートを開いた方が遥かに捕捉効率はいいだろうに、という思いが消えない私はやはり表面積にこだわり過ぎなのか?
宇宙の果てはどうなっているのか? [表面積]
…という質問が、Q&Aサイト「Yahoo!知恵袋」の「教養と学問・サイエンス」カテゴリーで繰り返し何度も何度もなされるFAQである、という話を以前書いた。
先ほど調べたら、「宇宙の果て」で353件、「〜の外」で118件、「〜の外側」で86件の質問がヒットした。この中には「宇宙の果てまで飛んで行け!」のような修辞的表現のものも含まれるので実際はもう少し少ないのだが、それにしても大変なFrequentぶりではある。しかも、それぞれの問いにいくつものそれなりの回答が寄せられている。飽きもせず回答する方々には「頭が下がる」としか言いようがない。
で、この問題についてあらためて考えてみた。
この問題には諸説があり、また私も系統的に勉強している訳ではないので、現時点でのこれが通説と言えるのかどうかすらわからないまま書くので、話半分に読んで欲しい。
(ちなみに,
これは「表面積ネタ」第5弾とも言える。)
サボテンの花 [表面積]
もう10年以上育てているサボテンが今年もまた可愛らしい花をつけた。
私の使っているデジカメ、CASIOのEXILIM EX-M1にはマクロ撮影機能がないので、こんな風に接写するとボヤけてしまう。困ったもんだ。買い替えようか?
それはともかく、サボテンという植物はどうしてこんな美しい花を咲かせるのだろうか? ま、花というものは本来どれも美しいのが当たり前なのだが、サボテンの花はとりわけ美しいと思う。
上の写真は今日撮ったのだが、以前撮った別のサボテンの写真も見てみよう。
これは母が育てていたサボテンで、母の死後田舎から持って来た。毎年純白の大輪の花をたくさん開く。目を見張るほど美しい。
これも母のものだった。細長い形なのだが、これもサボテンだよね? 滅多に咲かないのだが、2年前のこの時は凄かった。鮮やかなまっ赤な花がいっぱい咲いて、まさに百花繚乱のド派手さだった。
サボテンにこういう花が咲くのは年に数日間に過ぎない。貴重な一瞬だ。
ところで、サボテンという植物には、普段の花を咲かせていない時でも妙に〈存在感〉があるように思われる。勿論、植物にはみなそれなりの存在感があるのであって、特にそれが大きいのは巨木だろう。樹齢何百年にもなる巨木/大樹の前に立つと、圧倒的ともいえる迫力を誰しも感ずるだろう。静的ではあるが、幾星霜を経て地上にどっしりと構え、生き続け伸び続けている生命の存在感は極めて大きい。一種霊的なものさえ感じるのだ。
それに対してサボテンは小さくささやかな存在に過ぎないのだが、丸っこいその形(表面積に比しての体積の大きさ^_^;)が、内実の存在を暗示し、「こいつ、もしかして何か考えてるんじゃないか?意識があるんじゃないか?」などという錯覚を覚えさせるというか、そんな雰囲気を醸し出しているのだ。
ある人が「花屋でサボテンを見てたら、『私を買ってね』と、テレパシーで話しかけて来たように感じて、買って来ちゃった」と言ってたのを憶えている。馬鹿らしいようで、実はその気持ちがわかるような気がした。勿論これはヒトの側の思い込みに過ぎない。かわいい愛らしい、と思う心が投射されて一種の擬人化が起こっているのだろう。
まぁ、それくらい愛おしい植物ではあるのだった。