「私たちはどこから来て、どこへ行くのか: 科学に「いのち」の根源を問う」(森 達也) [サイエンス]
この本のタイトルに使われているのはゴーギャンの最後の絵のタイトルとして有名な言葉であり、ぞくぞくするような魅力を持っている。何よりも詩のような韻文としての響きの良さがあるし、意味的にも韻を踏んでいる(という言い方は変だけど)。哲学的であり宗教的でもあり、人間の認識の限界を超えた問いだろう。
Wikipediaで、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を引くと、ゴーギャンが通った神学校でのキリスト教の教理問答の中の言葉らしい。キリスト教であれば、この問いの答えは簡単なようにも思える。「神がお造りになった。いずれ最後の審判がある」の一言で済むのではないか?と思うのだが…。
普通はこの問いはとても難しい究極の問いのように扱われるのではないか?つまりキリスト教的でなく、むしろ神を持たない無宗教の人間にとってこそ、答えを求める気持ちが強くまた答えは得られないという不全感をもたらしている、と。
で、森氏はこの問いを隙あらば著名な科学者たちにぶつけるのである。そのための本と言っていい。
あのドキュメンタリー作家の森達也氏の意外な側面を見た。主な対話相手は生物学者である。その専門は微妙に異なっており分子生物学、進化論等々である。生物学以外では天文学から物理学、脳科学等の錚錚たるメンバーを相手にインタビューしている。
森氏は文中【生粋の文化系人間】であると自称しているが、彼の自然科学に関する勉強ぶりはどっこい相当なもので、高度な専門用語がポンポンと飛び出すので驚いた。その勉強量たるや、各界の一線の研究者達と「そら」で、アドリブでやりとりができているのである。
なので、一般に多くある〈素人同然の門外漢が科学の専門家に教えを請うて基本的な知識を伝授してもらい、それを傍観する読者が受け取る、という形式の入門啓蒙書〉とは全く趣を異にしている。主導権を森氏が押さえて話の展開を引っ張っているのである。形式も普通の対談本でなく、小説のような形になっている。
彼は何かにつけてはこのタイトルと同じ言葉の問いを発して相手の反応を引き出そうとしている。さらに例の問い以外にも、ドーキンスの「利己的遺伝子」論や、「人間原理」論についての質問を多くしている。
その結果として当然ながら、これは《森氏の本》となり、各専門家諸氏はその手のひらの上で動かざるを得ず、本来のその知識を全面的に開陳できておらず、内容的には科学読み物としては不十分なものになっていると言わざるを得ない。そもそも科学者たちはあの問いに皆モゾモゾとしてしまって明快な答えを返せていないのだった。無理もないが。
これは【失見当識】、つまり「今はいつで、ここはどこで、あなたは誰か?」という(救急病棟で医師が患者に問いかける)質問にうまく答えられない状態と似ており、すなわち人類は失見当識の状態にある、と立花隆が言っていたのを思い出した。
「激しい無神論者のドーキンスなら、『どこからも来ていないし、どこへも行かない』と言うであろう」と森氏が書いているのが妙に印象に残っており、実は私もこれに共感しかけた。それで済ましてしまえるならいいのだろうけど、私はそこまで割り切れない部分がある。
余談:森達也氏の新作ドキュメンタリー映画「FAKE」はとても面白そうなので、ぜひ観ようと思っている。
私たちはどこから来て、どこへ行くのか: 科学に「いのち」の根源を問う (単行本)
- 作者: 森 達也
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/10/22
- メディア: 単行本
Wikipediaで、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を引くと、ゴーギャンが通った神学校でのキリスト教の教理問答の中の言葉らしい。キリスト教であれば、この問いの答えは簡単なようにも思える。「神がお造りになった。いずれ最後の審判がある」の一言で済むのではないか?と思うのだが…。
普通はこの問いはとても難しい究極の問いのように扱われるのではないか?つまりキリスト教的でなく、むしろ神を持たない無宗教の人間にとってこそ、答えを求める気持ちが強くまた答えは得られないという不全感をもたらしている、と。
で、森氏はこの問いを隙あらば著名な科学者たちにぶつけるのである。そのための本と言っていい。
あのドキュメンタリー作家の森達也氏の意外な側面を見た。主な対話相手は生物学者である。その専門は微妙に異なっており分子生物学、進化論等々である。生物学以外では天文学から物理学、脳科学等の錚錚たるメンバーを相手にインタビューしている。
森氏は文中【生粋の文化系人間】であると自称しているが、彼の自然科学に関する勉強ぶりはどっこい相当なもので、高度な専門用語がポンポンと飛び出すので驚いた。その勉強量たるや、各界の一線の研究者達と「そら」で、アドリブでやりとりができているのである。
なので、一般に多くある〈素人同然の門外漢が科学の専門家に教えを請うて基本的な知識を伝授してもらい、それを傍観する読者が受け取る、という形式の入門啓蒙書〉とは全く趣を異にしている。主導権を森氏が押さえて話の展開を引っ張っているのである。形式も普通の対談本でなく、小説のような形になっている。
彼は何かにつけてはこのタイトルと同じ言葉の問いを発して相手の反応を引き出そうとしている。さらに例の問い以外にも、ドーキンスの「利己的遺伝子」論や、「人間原理」論についての質問を多くしている。
その結果として当然ながら、これは《森氏の本》となり、各専門家諸氏はその手のひらの上で動かざるを得ず、本来のその知識を全面的に開陳できておらず、内容的には科学読み物としては不十分なものになっていると言わざるを得ない。そもそも科学者たちはあの問いに皆モゾモゾとしてしまって明快な答えを返せていないのだった。無理もないが。
これは【失見当識】、つまり「今はいつで、ここはどこで、あなたは誰か?」という(救急病棟で医師が患者に問いかける)質問にうまく答えられない状態と似ており、すなわち人類は失見当識の状態にある、と立花隆が言っていたのを思い出した。
「激しい無神論者のドーキンスなら、『どこからも来ていないし、どこへも行かない』と言うであろう」と森氏が書いているのが妙に印象に残っており、実は私もこれに共感しかけた。それで済ましてしまえるならいいのだろうけど、私はそこまで割り切れない部分がある。
余談:森達也氏の新作ドキュメンタリー映画「FAKE」はとても面白そうなので、ぜひ観ようと思っている。
2016-05-03 21:30
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