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「鐘の渡り」(古井 由吉) [小説]

古井由吉という作家については、学生時代に芥川賞受賞作の「杳子・妻隠」だけを読んだ後は全く読んでいなかった。印象は悪くはなかったのだが、「内向の作家」というのにあまり魅力を感じなかったこともある。たまに店頭とかで新作を目にはしていたのだが。

 ところが最近、新聞(毎日)の記事(2014.12.15の「この1年の文芸ベスト5作」の中で、2人の選者がこの「鐘の渡り」を挙げ、

>作者自身を思わせる「私」が語り手の連作を書き継ぐ作家の最新作だが、その古井作品には「私」を表現しようとする私小説的な作者はいない。代わりに小説を解体する言葉の圧倒的な強度があるが、私小説的な作品がそのまま優れた世界文学になりうることを証明している。(田中和生)
>現代の日本語の尾根道を行くかのように、小説というジャンルを極限まで追求し、一作ごとに密度の高い表現を達成…人家から離れた宿で聞く時雨の音や、風に乗って響く山寺の鐘の音など、聴覚の表現によって、日常の底に沈んでいる危機の相を浮かび上がらせる。連作の形をとった現代文学の最高峰と言って良い。(富岡幸一郎)


と大絶賛なので、気になって機会があれば読んでみようかという気になっていた。

 さらには、同新聞の文芸時評(2015.6.24)では、最新作の「雨の裾」について、
>日本語の冒険もここまで来ると、私小説かどうかといった問題はどうでもよいように思えるが、そこに戦後文学の最高到達点の一つがあることは間違いない。…(田中和夫)

と、たたみかけるようなアピールである。これは「読まずば‥」リストに入れねばねば、ということで、図書館にオーダーして読んだ。

鐘の渡り

鐘の渡り

  • 作者: 古井 由吉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/02/28
  • メディア: 単行本



 「日本語の冒険」だの「最高峰」だのと強い言葉を言われるだけあって、読んでみると、なるほどこれはちょっと一筋縄ではいかないと思い、要約の困難性を痛感しつつ、以下に各作品の概要を。(と言っても、見ればわかるが、まず意味の分かりにくい、要領を得ないテキストしか書けなかった orz)

「窓の内」
怪談めいた話だ。嘘寒くなるような…。〈老境小説〉でもある。私小説的な自分(の昔の子供時代)の体験と夢の混淆。窓に向かって首を支えて顔を晒す、その奇態な行為、と子供的世界観(奇妙さ、物珍しさ、不完全感などが一体となったもの)による迷信的な思い込みと繰り返しの執拗さと。

「地蔵丸」
地蔵菩薩の顕現に立ち会う〈値遇〉。子供の泣き声、そして鳥(時鳥・ホトトギス)の鳴き声に関する(空耳も含めての)体験回想とそれのもたらす、あるいは示す、この世のものでない現れ。それに鋭く(あるいはぼんやりとでも)反応し、思いと感性をめぐらす鋭敏で深い感受性…。よるべなき泣き声の中に顕現する地蔵という宗教的いや宇宙的想念。
 やや晦渋な文体の中に、時間の長大な伸びしろの中に横たわる、小さなしかし認識の及ぶ範囲の広大な一人の人間の心が浮かび上がる。

「明日の空」
友人との酒場での夜更かし、雨に降り込められ朝帰りになって、空を見上げて交わす会話。老境に至っての不眠傾向の日々を過ごす時間感覚と身体の衰えた感覚。それを等閑視しつつ客観化する諦念に近い受容。

「方違え」
これだけ妙に具体的ストーリー展開があって、他の作品と印象が異なる。戦後間もない頃一旦離散していた家族(父、母、兄、弟)が再会して住まいを新しく手に入れて引っ越す。その際、父が縁起をかついで〈方違え〉のために一晩別の荒屋に宿泊するという、かなり奇妙な話(私小説として事実を書いているようだ)。その後の兄弟の来し方行く末、両親の死、兄の死と区切りが語られる。ここにまたしても〈不眠〉の話が出てくる。眠りの重要さはこの短編集に一貫するモチーフか?

「鐘の渡り」
友人との登山の宿で、夜聴こえた荒れた山寺からの鐘の音の幻聴。その発生由来についての考察が、同棲していた女と死別した男と、これから女と同棲する男という対極的な状況を踏まえつつ、互いの心の動きが描かれる。主に雨という天候とそのもたらす雰囲気に心を動かされる心性は他作品とも通底している。

「水こほる聲」
テーマは寒さ。昔の粗末な建て付けと夜具と暖房具の貧弱さと冬の厳しさ。転じてまたしても老人の〈眠り〉の困難さ、さらには飢えに苛まれた頃の食事の仕方にまで及ぶ。そこにもまた過去と現在と未来のあわいの不分明さ=永遠が立ち現れる。

「八つ山」
八つ山橋を渡って品川埠頭の散歩に毎日のように通っていた中学時代という偽記憶。その場所にまつわる、知人の思い出(自分を捨てた母親との別れ)と再会の話。これは私小説ではなくフィクションか。ここにも記憶と街や母の匂い、天候へのこだわりそして老いの変化が関わっている。

「机の四隅」
文筆業の書斎の話。書いている自分と、寝ている自分またはそれを見ている自分との分裂の感覚。親しい人の死を後になってから知ること。天象の不順と病いや死との関わり(昔はあったが今は失われている)に気づく=我に返ることこそ正気。聴覚(幻聴)の鋭さ。轟音(空襲体験)。自足感によって机と自分が合一する境地。

…と、全作品を通して感じるのは、〈老境小説〉であるということ。私小説家が歳をとれば当然の展開、帰結とも言えるが、「私」を超えた普遍性を獲得している。具体的には天象(雨や風)や鳥への敏感な反応、聴覚や触覚の鋭敏さ、眠りの重要性、体力の減退についての意識、時間感覚の混乱と歴史的眺望の確固さ、などなどが特徴的と思える。

 作者は私よりも1回り以上年上(1937生まれ)なので、「後期高齢者」に入っているわけで、肉体感覚の描写部分などではさすがに歳の差を感じて、「共感」はあまり無いのだが、いずれはそうではなくなるだろうという気はする。もっともそこまで生き延び続けられればの話だけれど。

タグ:老境小説
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