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或る阿呆な積ん読家の一生 [身辺雑記]

または「余は如何にして積ん読本を処理したか」
もしくは「積ん読本三分の計」
そして「恥の多い読書人生を送って来ました」

 9月以降、このブログの更新数は(ツイート数も)激減しているのだが、その背景について書こう。
 タイトル(およびサブタイトル)のとおり、
積ん読本と格闘
していたのである。

 私は世間的に見てかなり高度な(もしくは重症の)積ん読家である。この「世間」とは「1ヶ月に一冊も本を読まない人が多数」という昨今の風潮も含めた一般世間のことであって、読書家として知られる人(立花隆とか井上ひさしとか)に比べたら、まるでしろうとレベルなのだが。

 ともかく面白そうな本を本屋で見かけると衝動買いをしてしまうという性癖があり、それは高校生の頃から始まった(親は本のためなら別の小遣いをくれた)のだから相当な年季だ。高校の頃増えた積ん読本の筆頭は中央公論社の「世界の名著」シリーズで、確か25冊位はあったはず(田舎の実家に置いてある)。読んだのは量的に言って1/4くらいか。ニーチェ、フロイト、エラスムス、トマス・モア、諸子百家、ルソー、デュルケーム、ホイジンガ、トゥインビーなどは全部読み通したのは少ないが少しは読んだ記憶がある。残りは堂々の殿堂入りである。

 読む本の量 < 買う本の量
という単純な数式で《積ん読本は絶対的に増加する》の法則がある。法則などと言うのも大げさな当たり前のことである。とにかくそういう傾向というか、読みきれないほどの量の本を買うというスタイルの人間の宿痾と言っていい。(積ん読本の存在が早期退職を促した経緯については昔書いた。)

 さて読書家にとって本の置き場の問題と言うのは普遍的かつ深刻な問題である。スペース不足から必然的に処分せざるを得ない人が多かろう。ところが私の場合、幸か不幸か使えるスペースが十分あったという状況が禍根を残す元となった。そうでなかったら、置き場問題によって本の購入量を減らさざるを得なかっただろうし、もっと着実に処分していただろう。
 以前、父の経営する零細企業の町工場の一角の居住スペース(1K)に10年くらい住んでいた。そこから歩いて4分くらいの距離の今のマンションに17年前に引っ越したのだが、その後もそこは倉庫代わりに使えていた。
 そこに住んでいた間(とそれ以前から)溜まっていた積ん読本が山のようにあって、置き続けて放置していたのだ。
 積ん読本とは「今はすぐ読まないが、いずれは読もうと思って保存しておく本」と定義すれば、ここにあった本はその要件からかなり外れる。この倉庫を訪れるのはせいぜい年に2回くらい風を通すためと大雨が降った時に雨漏りを受ける洗面器の水を流す時くらいで、本の山を省みることはなかったのだ。「死蔵本」と呼ぶべきであろう。全くもったいないというか、申し訳ないというか、愛書家にはあるまじき不実ではある。

 ところが、その工場も含めた建物(父から相続)が老朽化してほっておけなくなったので、紆余曲折の末、解体することになったのである。さぁ、いよいよ長年のツケに対応せざるを得なくなったわけだ。死蔵放置していたとはいえ、一度は読もうと思って買った本である。3千円くらいの高価なのも多い。乱暴に全て売るなり捨てるなりの一括処分してしまう気にはなれない。未練がましい、と言われるかもしれないが。

 取り出して一冊一冊吟味して、
A)とっておいていずれは読む本(死蔵→積ん読へ昇格)
B)読む気はなくなった、あるいは優先順位が低いので古本屋に売り払う本
C)売れる見込みが無い(古過ぎる、汚損が激しいなど)無価値の本→ゴミとして捨てる
の3つに区分けしようと、膨大な本の山との格闘に突入したのであった。これぞ「積ん読本三分の計」。何冊あるのかいちいち数えていられないので分からないが優に千冊は越えているだろう。単行本と文庫本・新書が半々くらい。他に雑誌類も多数。

 売り払い分よりはやや少ないが、「これは到底引き取ってもらえないだろう」と思われる古雑誌やあまりに汚損が酷いもの()は、町内会で行う廃品回収に資源ゴミとして出すことにした。運びやすいように適宜ビニール紐でまとめた。その量は積み上げると約4mほどに達したかと思われる。この10月のときはiPhoneを持っていたのに写真を撮り忘れた(何かとあればSNSに写真をアップするという習性は私はあまり強くないし、そもそもそんな自慢できるリア充的場面ではないし)が、12月にももう一回残りを出した時には、玄関前に積んだところの写真を撮っておいた。↓
hon_gomi.JPG

 の売り払うことにした本は全体の約半分。比較的保存状態の良いもので、今となっては古びてしまったものが大半だ。小説などはあまり古びないものも多いのだが、自分の興味が失われたものも多かった。中にはなんでこんな小説を買ったんだ?と思うものまであった。でも、少しは今でも面白そう、と思えるものもたくさんあった(当然だ!自分の嗜好がそんなに変わるわけはないのだ)。
 唯一の選択基準は残された絶対的読書量(それは極めて少ないだろう)に照らして、それでも「読まずに死ねるか」モノかという優先度で、抽出作業で1冊当たり一瞬で判定したものから、表紙を見、目次を読み、パラパラめくり迷って1分以上悩んで決めたのもある(高価な本ほど、悩みは深い)。しかし、Aが全て読まないと死んでも死にきれない、というほどのものでもなく、明らかに「読みきれないだろ!」という量の本が残った。煩悩と言うしかない。

 出て来た本の中で特に多かった著者は、
筒井康隆、別役実、清水義範、井上ひさし、橋本治、笠井潔、など。
 ジャンル傾向は、私がこのブログで書いているレビュー対象本の分布と同じと言って良い。読書傾向の経年変化があまり無い、というのはあまり褒められたものではないかも知れない。

 雑誌では「SFマガジン」「本の雑誌」「面白半分」「宝島」「ダ・カーポ」「噂の真相」「文藝春秋」「創」「BRUTUS」「SPA!」「週刊アスキー」そして何よりMacintosh専門誌群すなわち、MacPower,MACLIFE,MacFan,MacJapan,HiperLib,日経MAC,Link Club Nwsletter,他にも月刊ASCII,日経バイト,日経パソコン,LOGINなど。

 普通なら「雑誌なんて問答無用に捨てるだろ?!」と言われるだろうが、そうは行かないのが私の業の深いところだ。
 一冊ずつ手にとって、〈今から読んでも面白い部分〉を抽出する作業に邁進したのである。記事内容には時間の経過とともに〈腐る〉度合いが異なり、20年前の記事でも〈読むに値する〉記事が結構あるのだ(一部は史料的に)。「新製品ニュース」の類は当然捨てるが、エッセイや文化論的考察文などでは読む価値があるものが僅かながら入っているのだ。それを探す作業がこれまた時間がかかった理由だ。見つけたらそのページだけ破り取り、ホチキスで止めて積んでいく。これがまた結構な量になった。何しろ元の分量が凄いので。雑誌の判型は多様だし、そういう種種雑多な記事スクラップの山を雑誌別、内容別に分類整理するのは非常に面倒なので、一切区別なくまとめてどんどん積み上げるしかない。その結果、例えばこんなふうな山が積み上がるのだが(ほんの一部)、
hon_zasshi.JPG
どこにどんな記事があるのか、全くわからない。つまり検索不可能なテキストのカオス的かたまりが現出し、後で「なんかアノことに関しての記事があったような気がする」と思いついても、容易にアクセスすることもまず出来ない。これは新たなゴミかという予感が強くするのだけれど、同じようなことは以前からやっていて、新聞の切り抜き保存記事が厳然として1メートル以上の山として存在しているのだった。

 作業に大活躍したのが、ホコリを拭き取るためのキンチョーサッサ(化学雑巾)。これは積ん読家の必須アイテムと言っていい。水で濡らした雑巾で本を拭く訳にはいかないから。なにしろ積年のホコリにまみれてひどい状態だったのだ。

 9月に始めて12月半ばまでかけて徐々に作業していた。そんなに長く、と言われるかも知れないが別に期限があるわけでもないので、連日フルタイムでやれば1週間もかからなかったかもしれないが、2,3日おきに行って2時間とか、ちびちびやっていたのだ。

 重複して2冊ある本が5組以上あった。健忘症が既に早期から始まっていたことの証か。単行本と文庫化されたものとか、いや同じ単行本が2冊というのも。orz
 図書館で借りて読んだ本が、実は積ん読本の山の中にあった、というのも結構ある。
 こういう重複はどう解釈すればいいのだろう。そんなにも読みたくて二度も買った、というのは違うだろう。少し興味を惹かれて衝動買いしたが、すぐに読まずに放置し、やがて忘れてしまい、本屋で再び目についてまた同じ興味を抱いて買った、ということだろう。つまり忘れるくらいなので興味の度合いはむしろ低い、と言えるだろう。したがって、こういうのは二冊とも売り払う方に入れたりした(一冊残したものも勿論あるが)。図書館で借りて読んだのは全部売り払い枠へ。

 逆に「買ったはずなのに見つからない本」というものも少しある。「ゲーデル・エッシャー・バッハ」というスゴ本が出てこない!と思っていたら、最後にダンボール箱から発掘できた。
 「ドグラ・マグラ」も買った記憶があったのだが、読みたいと思ったとき埋もれていたので青空文庫からダウンロードしてPC画面で読んだなんてこともある(既述)。これも出てこないな。

 これほど量があると、〈体積〉を意識せざるを得ない。つまりスペース問題。ここで「待てよ」と例の〈表面積〉脳が動き出した。本(=紙)は物質としてあるのではなく、その表面に印刷された文字をひたすら伝えるためのものである。つまりハードより肝心なのはソフトだ。ということは〈表面積〉で計るべきものなのだ。ところが、体積は表面積×紙の厚さなわけで、読む上では無意味な厚さなどというものが介在してくる。あくまでもこの世の物理存在であることを主張する訳だ。

 さて分別が終わり、の本を今住んでるマンションに持ち込んだのがこんな様子である。↓
hon_genkan.JPG
これは一部。実際の量はこの倍ある。

 ここで新たに重大な問題が起こった。を収容するスペースがない!のである。いや最初からわかっていたことなのだが。
 ここに住み始めて17年の間にも、積ん読本は増加し続け、狭いマンション内がほぼ飽和状態になっていたのだ。どこに置けというのだ?

 こうして10月以降は第2ラウンドに突入する。つまり、マンション内の積ん読本についても「三分の計」を実行せざるを得なくなったわけである。こちらの方が比較して新しいので比率が高く、なかなかスペースが稼げないのが痛い。

 マンション内には転居後に集めてあった各出版社の無料PR誌(以下細密圧縮充填リスト)、
岩波の「図書」、講談社の「本」、文藝春秋社の「本の話」、新潮社の「波」、小学館の「本の窓」「きらら」、集英社の「青春と読書」、角川書店の「本の旅人」、光文社の「本が好き!」、筑摩書房 「ちくま」、幻冬舎 「星星峡」「ポンツーン」、平凡社の「月刊百科」、東大出版会の「UP」、朝日新聞社の「一冊の本」、毎日新聞社の「本の時間」、未来社の「みらい」、みすず書房の「みすず」、マガジンハウスの「ウフ。」ポプラ社の「asta*」、徳間書店の「本とも」、吉川弘文館 の「本郷」、紀伊國屋書店の「SCRIPTA」、JUNK堂の「書標」など。
が山になっていた。これらからの、例の雑誌の時と同じ抽出作業が始まったのである。ものによって残す量はだいぶ違いがある。幻冬舎のなんかは単行本化する前の連載小説が殆どなので、数ページしか残らず全部捨てたが、岩波や講談社のなどは殆どまるまる残すことになった。ここで悩むのが連載物の扱いである。問題は二つある。
 ●全バックナンバーが揃っているわけでなく、書店で運良く入手できたものだけなので欠号がたくさんある。
 ●ある記事のページを切り離すと、裏面に別途残しておきたい記事の冒頭ページもしくは末尾ページが入ってしまう。
 というわけで、記事別にまとめて綴るのはあきらめた。手間も掛かり過ぎるし。ここでもカオスの山の発生が不可避だった。
 勿論、他の一般の本の選別作業もしなければならない。泣く泣く捨てるというのは心が折れる作業である。

 さらに問題がある。本のみならず、CDROMの山である。件の倉庫内にも5インチフロッピーが沢山あって全部捨てたのだが、マンション内にも積んROMが沢山あってこんな具合。↓
hon_cdrom.JPG
 これらの殆どが68KもしくはPPCでしか動かないのだ。今使っているiMac(インテルCPU)では駄目。アプリ形式のものはほぼ全滅!なんという金の無駄!Appleの旧OS切り捨ての思い切りの良さが恨めしい。
 それでも、プレーンテキストや画像などでサルベージして保存に値するものもあるかと、またしてもチェック抽出作業に邁進。時間がかかることかかること。おまけにiMacのドライブが調子悪くて、マウントできたり出来なかったり、と散々である。

 というわけで、この一連の作業、売り払いも含めて

 
実はまだ終わってないのです。


   ◆
 余談だが、ちょうどいいタイミングで俄にサンリオSF文庫ブームのようだ。当時当然、何冊も買ってあった。で、積ん読本の中から発掘された当該文庫本は下記の細密圧縮通り。
●フィリップ・K・ディック 「ヴァリス」「聖なる侵入」「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック I」「同 II」「死の迷宮」「最後から二番目の真実」● ラファティ「悪魔は死んだ」●マッキンタイア「夢の蛇」●ピエール・クリスタン「着飾った捕食家たち」●ジェイムズ・ティプトリーJR.「老いたる霊長類の星への賛歌」●スラデック「スラデック言語遊戯短編集」●オールディス「世界 A の報告書」●コンプトン「人生ゲーム」● ジョアナ・ラス「フィーメール・マン」●ボブ・ショウ「去りにし日々、今ひとたびの幻」● 「ジョン・コリア奇談集」●アントニィ・バージェス「どこまで行けばお茶の時間」
無かったが、読んだ記憶があるもの…「内死」「ラーオ博士のサーカス」「逆転世界」


   ◆
もひとつ余談。
 この作業をしていた頃、Twitterで作家の平野啓一郎氏が、ある人物が最晩年に読んだ本(確かショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」)でそれまでの人生がひっくり返るような衝撃を受け、やり直したくてもすぐに悔恨のまま死んだ、というような逸話を引き、「自分の書庫内の積ん読本のなかにもそういう本があるのかも」と焦燥感をつぶやいていたのが心に残った。
 確かに悲劇としか言い様がないのだが、本との出会いは、まさに人生での人との出会いと同じかそれ以上に重いものだろう。積ん読本の多さは、その一期一会への渇望の指標にも思える。

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