「耄碌寸前」(森 於菟) [ノンフィクション]
古い新聞を整理していて見つけた書評(池内紀氏による)に目が止まって(《老境》という自分に近しい話題であることもあって)興味を惹かれて図書館で借りて読んでみた。
池内紀については「香水―ある人殺しの物語」の訳文に惚れ込んで以来、気になる文筆家として意識しているのだが、あの仕事ほどの作品にはその後巡りあっていない気がするのが少し残念なような…(本人も「あれほどの仕事はもう出来ない」と語っていたが)。
ともあれ、彼が解説も書いて絶賛しているということで、これまで全くその名さえ知らなかった森鴎外の長男の森於菟(1890〜1967)の随筆集であるこの本を読んだ次第。
父と同じく医学の道を歩み、東大の解剖学教室の教授となった彼は、47歳にして初めて一般向けの文章を発表し、その後もほそぼそと綴っていた文章群の中から、選りすぐったのがこの文集で、その多くは家庭人としての父の思い出を語っており、父への尊崇の念が見て取れる。そして幸福な幼少年時代。
その白眉は「観潮楼始末記」で、鴎外の一家が長く住んだ千駄木の邸宅での様々な出来事を詳しく綴ったものだ。
他に解剖学関連の話や、大学教育の話、飼い犬の思い出、忘れ物の多い話などの身辺雑記、鴎外の死因の推測(結核)などなど、テーマも文体も多様に展開する。
72歳の時に書かれた表題作「耄碌寸前」の書き出しは
>私は自分でも自分が耄碌しかかっていることがよくわかる。
……私はある種の老人のように青年たちから理解されようとも思わない。また青年たちに人生教訓をさずけようとも思わない。ただ人生を茫漠たる一場の夢と観じて死にたいのだ。そして人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番良い。……
すごい文章だ!
静謐で抑制の効いた簡潔さ、鋭い観察と達意の文章。時にユーモアも交えておおらかに綴られるこの文集は、古風な漢語表現が多用されて若干の読みにくさはあるものの、とても魅力的だった。
池内紀については「香水―ある人殺しの物語」の訳文に惚れ込んで以来、気になる文筆家として意識しているのだが、あの仕事ほどの作品にはその後巡りあっていない気がするのが少し残念なような…(本人も「あれほどの仕事はもう出来ない」と語っていたが)。
ともあれ、彼が解説も書いて絶賛しているということで、これまで全くその名さえ知らなかった森鴎外の長男の森於菟(1890〜1967)の随筆集であるこの本を読んだ次第。
父と同じく医学の道を歩み、東大の解剖学教室の教授となった彼は、47歳にして初めて一般向けの文章を発表し、その後もほそぼそと綴っていた文章群の中から、選りすぐったのがこの文集で、その多くは家庭人としての父の思い出を語っており、父への尊崇の念が見て取れる。そして幸福な幼少年時代。
その白眉は「観潮楼始末記」で、鴎外の一家が長く住んだ千駄木の邸宅での様々な出来事を詳しく綴ったものだ。
他に解剖学関連の話や、大学教育の話、飼い犬の思い出、忘れ物の多い話などの身辺雑記、鴎外の死因の推測(結核)などなど、テーマも文体も多様に展開する。
72歳の時に書かれた表題作「耄碌寸前」の書き出しは
>私は自分でも自分が耄碌しかかっていることがよくわかる。
……私はある種の老人のように青年たちから理解されようとも思わない。また青年たちに人生教訓をさずけようとも思わない。ただ人生を茫漠たる一場の夢と観じて死にたいのだ。そして人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番良い。……
すごい文章だ!
静謐で抑制の効いた簡潔さ、鋭い観察と達意の文章。時にユーモアも交えておおらかに綴られるこの文集は、古風な漢語表現が多用されて若干の読みにくさはあるものの、とても魅力的だった。
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