「赤毛のアン」の秘密(小倉 千加子) [ノンフィクション]
今年の4月から9月末まで放映されたNHK朝ドラの「花子とアン」はずっと観ていた。それなりに面白かったが、事実とはだいぶ違う、というような話も聞こえてきた。特に戦争協力の辺りか。
「赤毛のアン」は、中学生の頃、姉の本棚にあったのを読んだことがある。姉がハマってて新潮文庫(村岡花子訳)の全10巻があって、勢いで全巻通読したのだ。しかし内容は殆ど憶えていない。最も印象が強いのはやはり第一巻のいくつかのエピソード(養子は男の子と望んでいたのを知って嘆く、石版でギルバートの頭を殴る、髪染めで緑色の髪になる、ボートが沈んでギルバートに助けられる、etc)で、モンゴメリも続篇を書くつもりはなかったのに、出版社の要請で(作家業を続けるために)書き続けたということらしいので、惰性によるクォリティの低下・マンネリ化は必然だったんだろう。
この本は心理学雑誌「イマーゴ」に1991.5〜1993.1連載された「アンの迷走―モンゴメリと村岡花子」に、さらに調査研究を重ねて加筆し、2004年岩波書店から出版されたもの(今年、岩波現代文庫で再版されている↓)。
小倉千加子と言えば、「結婚は女の顔と男の金の交換である」という名言(?)を憶えている(これがあの有名な回文「世の中ね、顔かお金かなのよ」の元ネタなのかどうかは知らない)。
このフェミニストが「赤毛のアン」をどう分析するのか、図書館の棚で偶然見つけて、呼ばれた気がしたので借りて読んだ。
>「人生最大の関心事は結婚」という言葉を飽きるほど女子学生から聞いた。今も「ギルバートのような男性を探している」と知的な大人の女性から何度も聞く。
>(彼女らが熱狂的に読んでいた)アンという少女の心性がわからなければ、戦後日本人女性の心性は解明できないという結論に至った。
>モンゴメリの評伝という形をとって、日本人女性の結婚観・仕事観・幸福感の特異性を考察したもの
…というわけでこの本は書かれた。
「赤毛のアン」という二流の通俗小説(それはモンゴメリも自覚していたようだ)が世界の中でも日本で突出して読まれ続けた(そのためプリンスエドワード島を訪ねる日本女性の数が凄い)情況の背景は一体何か?
本書の殆どはモンゴメリの生い立ち、やや複雑な家族関係、父への愛、長老派プロテスタントの刻印、学校教育、教職経験、文筆業への進出、「アン」でのデビュー、狂熱的な恋、36歳での晩婚、双子というものへの関心、夫の鬱病、などを順を追って描き、その時々の彼女の心の動きを追っている。
そして彼女自身も「神経衰弱(=やはり鬱病)」に長く苦しみ、最後に自殺に至った、と断言している。状況証拠的な推測だが、説得力はある。
モンゴメリとアンはほぼ同一人格だが、その人生の詳細や展開の違いは当然ある。モンゴメリは保守的で愛国的、伝統的女性観(家を守る良妻賢母)と、その一方で社会に出て名を成し自立する、という二つの価値観のアンビバレントな状態にあった、と。作品中ではアンは作家を断念し家に入って専業主婦を選ぶ。元々「家を出る」話ではなく、「家に入る」ための物語であったのだ。
(そう言えば「良妻賢母」とは、姉の通っていた女子高校の校是であったw)
「ロマンチック」の意味・構成要素そして機能が分析されている。日本から見て異郷の自然へのノスタルジックな愛着で、理性より情緒的であり、これは自由独立・アイデンティティの確立とは相反する、と。
男なのに「アン」にハマったことがあるなんて、ちょっと恥ずかしくてカミングアウトしたくない気もするが(中には茂木健一郎みたいな男性も居るけれども)、この本で自分の読み方が普通の女性の受容の仕方とはまるで違っていたようだということが分かった。性の違いによる感情移入の程度の差だ。少女読者はアンを自分の分身であるかのように同一化し、ともに泣き笑い感動し悲しみ怒り…を身をもって追体験していたのだろう。一方こちらは〈動物園の可愛らしい珍獣〉を見守るように観察していたような気がする。「面白い子どもだなぁ」と。
なお、村岡花子に関する立ち入った論評は殆ど無かった。
「赤毛のアン」は、中学生の頃、姉の本棚にあったのを読んだことがある。姉がハマってて新潮文庫(村岡花子訳)の全10巻があって、勢いで全巻通読したのだ。しかし内容は殆ど憶えていない。最も印象が強いのはやはり第一巻のいくつかのエピソード(養子は男の子と望んでいたのを知って嘆く、石版でギルバートの頭を殴る、髪染めで緑色の髪になる、ボートが沈んでギルバートに助けられる、etc)で、モンゴメリも続篇を書くつもりはなかったのに、出版社の要請で(作家業を続けるために)書き続けたということらしいので、惰性によるクォリティの低下・マンネリ化は必然だったんだろう。
この本は心理学雑誌「イマーゴ」に1991.5〜1993.1連載された「アンの迷走―モンゴメリと村岡花子」に、さらに調査研究を重ねて加筆し、2004年岩波書店から出版されたもの(今年、岩波現代文庫で再版されている↓)。
小倉千加子と言えば、「結婚は女の顔と男の金の交換である」という名言(?)を憶えている(これがあの有名な回文「世の中ね、顔かお金かなのよ」の元ネタなのかどうかは知らない)。
このフェミニストが「赤毛のアン」をどう分析するのか、図書館の棚で偶然見つけて、呼ばれた気がしたので借りて読んだ。
>「人生最大の関心事は結婚」という言葉を飽きるほど女子学生から聞いた。今も「ギルバートのような男性を探している」と知的な大人の女性から何度も聞く。
>(彼女らが熱狂的に読んでいた)アンという少女の心性がわからなければ、戦後日本人女性の心性は解明できないという結論に至った。
>モンゴメリの評伝という形をとって、日本人女性の結婚観・仕事観・幸福感の特異性を考察したもの
…というわけでこの本は書かれた。
「赤毛のアン」という二流の通俗小説(それはモンゴメリも自覚していたようだ)が世界の中でも日本で突出して読まれ続けた(そのためプリンスエドワード島を訪ねる日本女性の数が凄い)情況の背景は一体何か?
本書の殆どはモンゴメリの生い立ち、やや複雑な家族関係、父への愛、長老派プロテスタントの刻印、学校教育、教職経験、文筆業への進出、「アン」でのデビュー、狂熱的な恋、36歳での晩婚、双子というものへの関心、夫の鬱病、などを順を追って描き、その時々の彼女の心の動きを追っている。
そして彼女自身も「神経衰弱(=やはり鬱病)」に長く苦しみ、最後に自殺に至った、と断言している。状況証拠的な推測だが、説得力はある。
モンゴメリとアンはほぼ同一人格だが、その人生の詳細や展開の違いは当然ある。モンゴメリは保守的で愛国的、伝統的女性観(家を守る良妻賢母)と、その一方で社会に出て名を成し自立する、という二つの価値観のアンビバレントな状態にあった、と。作品中ではアンは作家を断念し家に入って専業主婦を選ぶ。元々「家を出る」話ではなく、「家に入る」ための物語であったのだ。
(そう言えば「良妻賢母」とは、姉の通っていた女子高校の校是であったw)
「ロマンチック」の意味・構成要素そして機能が分析されている。日本から見て異郷の自然へのノスタルジックな愛着で、理性より情緒的であり、これは自由独立・アイデンティティの確立とは相反する、と。
男なのに「アン」にハマったことがあるなんて、ちょっと恥ずかしくてカミングアウトしたくない気もするが(中には茂木健一郎みたいな男性も居るけれども)、この本で自分の読み方が普通の女性の受容の仕方とはまるで違っていたようだということが分かった。性の違いによる感情移入の程度の差だ。少女読者はアンを自分の分身であるかのように同一化し、ともに泣き笑い感動し悲しみ怒り…を身をもって追体験していたのだろう。一方こちらは〈動物園の可愛らしい珍獣〉を見守るように観察していたような気がする。「面白い子どもだなぁ」と。
なお、村岡花子に関する立ち入った論評は殆ど無かった。
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