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「カノン」(中原 清一郎) [小説]

本屋の店頭で腰巻きの宣伝文(「初老の男と若い女の脳交換」…みたいな)を見て、興味を持ったので読んでみた。

カノン

カノン

  • 作者: 中原 清一郎
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/03/10
  • メディア: 単行本

 10年後の未来。脳の中で記憶をつかさどる海馬の交換移植手術のコーディネートが整い、実施される。末期がん患者で58歳の北斗と、記憶が退化する「ジンガメル症候群」(←架空の病気)を患う32歳の歌音(かのん)との間の交換。北斗の体は余命いくばくもないので、この交換は歌音の方が一方的に不利益に見えるが、海馬が萎縮しいずれ記憶が全てなくなり事実上「死」を迎える運命の彼女にとっては、息子の母親を代わりに(自分の体を使って)務めてくれる人物がどうしても必要だったという設定なのだが、いささか無理があるような。

 それを言うなら海馬(=脳の一部)の移植などという途轍もない設定自体が無理筋といえば無理筋なんだけども、SF(しかもかなり遠未来の)なら許せるのかもとも思ったが、読んでみると、これはSF(小松左京的な意味での)ではなくむしろ純文学なのだった。つまり、人類文明云々ではなく個人の人生・幸福・性・親子関係・生と死、等々を考える小説なのだ。(故にマイ・カテゴリは「小説」の方にした)

 だからSF考証的に難癖をつけるのはお門違いである。とは言え、肝心要の「海馬」の機能(短期記憶保持と長期記憶を大脳各所へ移動)を取り違えているのはちょっと頂けない。全人格が海馬にあるような前提で展開しているのだ。そのくせ歌音の肉体からの「残留思念」?が時折現れるというのも不自然というかオカルトっぽい。

 …と不満点はあるのだが、読み進めるとそういう矛盾点はこの際どうでもよくなって(とは完全には言い切れないのだが)、歌音の肉体の中に入り込んだ初老の男の意識が、さまざまな出来事を通してどのように変容していくか、という展開がスリリングで引き込まれた。

 手術までの綿密な検討調整(生命倫理委員会での討議の詳細含む)、手術後のリハビリ(女性としてのジェンダー・行動の練習)、退院、夫と息子との生活、職場(雑誌編集)復帰、疑惑を持った同僚からの悪質ないやがらせ工作、息子との関係悪化、育児ノイローゼ、息子が巻き込まれたトラブルへの対処、元娘との違法な接触、旧友との再会、行方不明になった息子の必死の捜索、歌音の実母との再会、元の体の中の歌音との面会、と様々な出来事が目白押しに展開し、その時々の心理描写が細かくなされて、これが非常に《リアル》感を醸し出している。また、リーダビリティも高い。

 基本的に貫かれる一本の線は、心は男なのに体は女、という性同一性障害的な状況への対応、肉体と脳との相克、融和、統合への道筋、そのための苦闘である。いやはやなんとも凄まじい心理的試練だ。さらに世代差的な障害、職業経験的な不整合もある。よくもこれだけ盛り込んで一編の(さほど長くない)小説に仕立てあげたものだと思う。つまり、設定に難はあるが展開は評価できる、という結果オーライな作品で、結末は感動的であった。

 但し、セックスの問題は未解決(夫とはセックスレス)のままで、ここはちょっと不満が残る。小説として「未完」状態と言えなくもないが、将来への明るい展望が開けたことで、以後のことは余韻の中へ封じたのかも知れない。


 …というのは読んだ直後の感想であったのだが、設定に難があると、プロットがよく見えても、果たしてここに描かれた心理というものは現実としてあり得るのか?というかその構築・展開に信憑性・合理性はどれくらいあるのか?という疑問は湧いてくる。

 作者の想像力と筆力は大したものである事は認めるが、土台に誤りがあると、その上に築かれたものも意味を成さなくなるのだから、この作品で一見緻密に構成された北斗&歌音の心理描写の真実性は担保されなくなるだろう。

 また、性同一性障害に対して、結果的に心よりも体の方の優位性を認めるような印象がある。これはどうなのか? 一般のそれと同一視は出来ないが。当事者がこれを読んでもあまり共感できないんじゃないだろうか?と。

タグ: セックス
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