「哲学的な何か、あと数学とか」(飲茶) [サイエンス]
この本の前に「哲学的な何か、あと科学とか」というのを出して、それがそこそこ売れたので第二弾のこの本を書いた、とか。それにしても、このペンネームは何だ?
このタイトルからは哲学メインの話かと思ったら、そんな話は殆ど無くて、もっぱら数学(それもフェルマーの最終定理)のことばかりではないか!
その話なら、既に例のサイモン・シンの本「フェルマーの最終定理」を読んでるのになぁ、と思いつつ読み進めると、とてもわかりやすい軽妙な(悪く言えば軽薄な)文体で書かれていてやたらとリーダビリティが高く、あっという間に読み終わった。
しかも、件のサイモン・シンの本を読んだ時には
>肝心の谷山=志村予想(楕円方程式とモジュラー形式は一致する)の登場あたりから、とたんに意味が分からなくなった。わかるのは「とにかくスゲェ深遠な世界だ」っていうことだけに
と書いたのだが、この本ではその部分がよりわかりやすく説明されていて、
「フェルマーの数式は変形すると楕円方程式になる」という発見(数学者のゲルハルト・フライによる)がまず示される。
自然数A,B,CについてA^n+B^n=C^nが成立する(=フェルマーの命題が偽である)と仮定すると、これは変形して y^2=x^3+(A^nーB^n)x^2ーA^n・B^n という楕円方程式になる、と(この変形過程は複雑すぎて省略されているw)。
しかし、この式はモジュラー形式〈一定の回転や平行移動などの操作をしても変化しない図形や数式(サインカーブなど)〉ではないのだ、と言う。すると、谷山=志村予想(すべての楕円方程式はモジュラー形式である)に反してしまうことになり矛盾が起こる。つまり背理法によって証明できるわけだ。
となると、要は「谷山=志村予想」という仮説を証明すればフェルマーの最終定理が証明されたことになる、という理路である。
うん、前よりも良くわかった(つもりになった)。つまり「読んでよかった」。
あとは例によって、アンドリュー・ワイルズの血のにじむような努力の連続、欠陥の発覚とそれのさらなる克服という過程の描写で、これは有り体に言えばサイモン・シンのパクリじゃないか?という印象はある。
タイトルとの関連だが、フェルマーの最終定理という《悪魔》に魅入られて一生をつぎ込んだ沢山の人々の運命、その純粋な知の探究心(と名誉欲も)は哲学にも通じるものではあるか。
このタイトルからは哲学メインの話かと思ったら、そんな話は殆ど無くて、もっぱら数学(それもフェルマーの最終定理)のことばかりではないか!
その話なら、既に例のサイモン・シンの本「フェルマーの最終定理」を読んでるのになぁ、と思いつつ読み進めると、とてもわかりやすい軽妙な(悪く言えば軽薄な)文体で書かれていてやたらとリーダビリティが高く、あっという間に読み終わった。
しかも、件のサイモン・シンの本を読んだ時には
>肝心の谷山=志村予想(楕円方程式とモジュラー形式は一致する)の登場あたりから、とたんに意味が分からなくなった。わかるのは「とにかくスゲェ深遠な世界だ」っていうことだけに
と書いたのだが、この本ではその部分がよりわかりやすく説明されていて、
「フェルマーの数式は変形すると楕円方程式になる」という発見(数学者のゲルハルト・フライによる)がまず示される。
自然数A,B,CについてA^n+B^n=C^nが成立する(=フェルマーの命題が偽である)と仮定すると、これは変形して y^2=x^3+(A^nーB^n)x^2ーA^n・B^n という楕円方程式になる、と(この変形過程は複雑すぎて省略されているw)。
しかし、この式はモジュラー形式〈一定の回転や平行移動などの操作をしても変化しない図形や数式(サインカーブなど)〉ではないのだ、と言う。すると、谷山=志村予想(すべての楕円方程式はモジュラー形式である)に反してしまうことになり矛盾が起こる。つまり背理法によって証明できるわけだ。
となると、要は「谷山=志村予想」という仮説を証明すればフェルマーの最終定理が証明されたことになる、という理路である。
うん、前よりも良くわかった(つもりになった)。つまり「読んでよかった」。
あとは例によって、アンドリュー・ワイルズの血のにじむような努力の連続、欠陥の発覚とそれのさらなる克服という過程の描写で、これは有り体に言えばサイモン・シンのパクリじゃないか?という印象はある。
タイトルとの関連だが、フェルマーの最終定理という《悪魔》に魅入られて一生をつぎ込んだ沢山の人々の運命、その純粋な知の探究心(と名誉欲も)は哲学にも通じるものではあるか。
タグ:数学
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