子供と大人の〈見える世界〉の広さの差 [サイエンス]
あのクソ暑く長い夏がやっと終わって、涼しくなった。その割にまだ金木犀の香りが漂ってこないのはなぜだろう? 先日わずかに嗅いだのだが、今年は開花が少ないのか遅れているのか?
ともあれ「天高く馬肥ゆる秋」の到来である。この言葉に示される「空の高さ」について以前から思っていたことだが、これは空自体の高さではなく雲の高さを示している。一点の雲もない快晴はどの季節にもあるが、それらの〈高さ〉に違いは感じられない。そもそも青空そのものに高さなど無いし、見ているようで実は見ていないのだ。心理学で言う〈図と地〉の「地」(=背景)にあたるものなので、そこに何か(雲とか飛行機とか)があって初めてその背景として現れるのだ。
「秋の空が高い」ということは〈雲が高い〉ということに他ならない。気象条件により秋によく現れる巻雲は非常に高く1万mちかくある。それに対してよく見る積雲は数百mからせいぜい2千mくらいだろう。
先日、積雲と巻雲が重なって見えた時に、はっきりとその高さの違いが認められた。積雲よりも遥か上空に巻雲があるのが良く見て取れるのだ。この違いはなにかと言ったら、それぞれに視線を合わせた時に左右の目の向きつまり視線の〈光軸〉がわずかに違う、遠いものを見る方がより平行に近いということだろう。2つの眼によって奥行きのある立体視が出来るということはそういうことだ。しかし、千m先と1万m先を見る時の光軸の角度の違いと言ったら(三角関数は苦手なので計算は略するが)極めて小さいはずだ。その視線を制御する眼球筋の収縮度合いのわずかな差を脳は処理して距離感の違いを生み出しているわけで、なんという精密さかと驚くばかりである。
やたらと前置きが長くなったが、そんなことを考えていた矢先、昨夜こんなツイートがTwitterのTLに現れた。
これはハードよりもソフト的な次元(付き合う人の多さとか行動範囲など)での世界観に注目した発言なのだろうが、それとは別にこの時にとっさにひらめいてつぶやいたのがこれである。
(Twitterのシステムが供する「このツイートをサイトに埋め込む」コマンドでは、会話( in reply toマーク付き)のいちいち相手の元のものまで再掲するHTMLを生成してしまい、若干煩わしいのだが、編集して直そうとしてもうまくいかないのでそのままにしてある)
書いた後、前田敦子だけではなく、「森喜朗元総理や、地獄のミサワの見解も」と付け加えればよかった、などと思ったのは内緒だ。
どういうことかわからない人のために念のため補足すると、(図を描けばわかるが)左右の目の間隔の長さが異なると、同じ10m先のものを見ても、左右の2本の視線の角度のとり方が異なり、短い子供の方がより平行に近い向きになる、ということだ。平行に近いということは(巻雲のように)「より遠くにあるものとして捉えている」ということになる。対して大人はより〈寄り目〉寄りになる。(よりよりよりより…w)つまり近いものを見ている感じだ。
これによって子供と大人の遠近感は異なる、という結論が導かれるわけである。同じ物を見てもより遠く感じるということこそ、校庭が広いと感じることの理由である。当然大人が見れば近く=狭く感じる、というわけ。
まぁ、これにしたって、結局は体が成長して大きくなったから、というのとあまり変わらないような気もするが、その言い方だと客観的に見て身長と校庭との相対的な比率にのみ注目していて、主観的な感覚世界の事象であることを忘れている、と思った次第。(どこかで誰かが既に言っているのだろうけれど。)
ともあれ「天高く馬肥ゆる秋」の到来である。この言葉に示される「空の高さ」について以前から思っていたことだが、これは空自体の高さではなく雲の高さを示している。一点の雲もない快晴はどの季節にもあるが、それらの〈高さ〉に違いは感じられない。そもそも青空そのものに高さなど無いし、見ているようで実は見ていないのだ。心理学で言う〈図と地〉の「地」(=背景)にあたるものなので、そこに何か(雲とか飛行機とか)があって初めてその背景として現れるのだ。
「秋の空が高い」ということは〈雲が高い〉ということに他ならない。気象条件により秋によく現れる巻雲は非常に高く1万mちかくある。それに対してよく見る積雲は数百mからせいぜい2千mくらいだろう。
先日、積雲と巻雲が重なって見えた時に、はっきりとその高さの違いが認められた。積雲よりも遥か上空に巻雲があるのが良く見て取れるのだ。この違いはなにかと言ったら、それぞれに視線を合わせた時に左右の目の向きつまり視線の〈光軸〉がわずかに違う、遠いものを見る方がより平行に近いということだろう。2つの眼によって奥行きのある立体視が出来るということはそういうことだ。しかし、千m先と1万m先を見る時の光軸の角度の違いと言ったら(三角関数は苦手なので計算は略するが)極めて小さいはずだ。その視線を制御する眼球筋の収縮度合いのわずかな差を脳は処理して距離感の違いを生み出しているわけで、なんという精密さかと驚くばかりである。
やたらと前置きが長くなったが、そんなことを考えていた矢先、昨夜こんなツイートがTwitterのTLに現れた。
大人になると、子供の頃遊んだ場所や遊具が小さくなったように感じる。単純に僕の体が大きくなったからだと考えていたけど、それだけでは説明できない気がする。広い世の中を知る大人にとってはちっぽけな滑り台も、公園や学校が世界の全てだった子供には、巨大な建造物に映っていたのかもしれない。
— ダ・ヴィンチ・恐山さん (@d_v_osorezan) 10月 9, 2012
これはハードよりもソフト的な次元(付き合う人の多さとか行動範囲など)での世界観に注目した発言なのだろうが、それとは別にこの時にとっさにひらめいてつぶやいたのがこれである。
(Twitterのシステムが供する「このツイートをサイトに埋め込む」コマンドでは、会話( in reply toマーク付き)のいちいち相手の元のものまで再掲するHTMLを生成してしまい、若干煩わしいのだが、編集して直そうとしてもうまくいかないのでそのままにしてある)
.@d_v_osorezan 子供の頃見た校庭が大人になると狭く見える現象の原因は体が大きくなったことより、左右の目の間隔が広がったことにより、距離を感じる〈視差角〉がより大きく(→近く感じる)なったため、と考えますが、如何?
— あすくさん (@asknkn) 10月 9, 2012
@asknkn なるほど! 目の幅! そういう考え方もありですね。大人と子供でそんなに違うものかという気もしますが、面白いなあそれ。顔のパーツが寄ってる人の世界は子供に近かったりするのだろうか。
— ダ・ヴィンチ・恐山さん (@d_v_osorezan) 10月 9, 2012
@d_v_osorezan 前田敦子の見解がまたれますね。
— あすくさん (@asknkn) 10月 9, 2012
書いた後、前田敦子だけではなく、「森喜朗元総理や、地獄のミサワの見解も」と付け加えればよかった、などと思ったのは内緒だ。
どういうことかわからない人のために念のため補足すると、(図を描けばわかるが)左右の目の間隔の長さが異なると、同じ10m先のものを見ても、左右の2本の視線の角度のとり方が異なり、短い子供の方がより平行に近い向きになる、ということだ。平行に近いということは(巻雲のように)「より遠くにあるものとして捉えている」ということになる。対して大人はより〈寄り目〉寄りになる。(よりよりよりより…w)つまり近いものを見ている感じだ。
これによって子供と大人の遠近感は異なる、という結論が導かれるわけである。同じ物を見てもより遠く感じるということこそ、校庭が広いと感じることの理由である。当然大人が見れば近く=狭く感じる、というわけ。
まぁ、これにしたって、結局は体が成長して大きくなったから、というのとあまり変わらないような気もするが、その言い方だと客観的に見て身長と校庭との相対的な比率にのみ注目していて、主観的な感覚世界の事象であることを忘れている、と思った次第。(どこかで誰かが既に言っているのだろうけれど。)
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