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「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」(ニコラス・G・カー) [ノンフィクション]

2年前に「クラウド化する世界」(未読)を書いた著者による新作。画期的な知的ツールであるインターネットが我々のにどんな影響を及ぼすか、について脳研究の知見を交え考察し、警告を発する。タイトルはちょっと軽薄な印象を与えるが、学術的な本である。
ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

  • 作者: ニコラス・G・カー
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2010/07/23
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
「グーグル化」でヒトはバカになる。グーグルで知らないことを検索し、ツイッターで日常をつぶやき、iPadで本を買って読む。さまざまなインターネットメディアを当たり前のように使う日常のなかで、実は私たちの脳は少しずつ変化しているのだ。『クラウド化する世界』の著者がメディア論から神経科学までを使って暴きだす、まだ誰も知らない驚きの真実。

 人類の知的ツールの発展の歴史を詳しく振り返り(膨大な参考文献量!)、その上に立って、現在進行中のインターネットの及ぼす影響について、広大な視野で論じている。非常に明快平明に書かれているが、説得力ある内容は重いし衝撃的だ。全てのネット民必読、と言っていい。

 以下抜粋である。抜粋と言うにはいささか長くなりすぎているが、読み進めていく中で、ポイントとなるところを書き写していたらこうなってしまったので、あえて載せる。概要を把握するのには十分とは言えない(個々のディテールがとても深く豊かで面白いので、是非本文を読むことをお勧めする)が、これだけ多く抜粋すると「引用」の域を超えてしまうので、なるべく私自身のコメント◆を付ける。



 メディアが魔法をかけるのは、あるいはいたずらを行うのは、神経系自体に対してである。脳内で何が起こっているのかヒトは気がつかない。
「重要なのは使い方なのだという考えは、テクノロジーをまるでわかっていない鈍感なスタンス」(マクルーハン)
 メディアは思考の束を提供すると同時に思考のプロセスを形成している。
◆これは「メディアはメッセージである」とか、(少しずれるかも知れないが)「アーキテクチャーがコンテンツを決定する」問題を想起させる。メディアと知との重大なダイナミズムがここで予告されている。

第1章 HALとわたくし
 我々は長い文章を読む能力を失っている。
 マクルーハンが予言したとおり、我々は知性の歴史・文化の歴史における重要な接合点、全く異なる二つの思考モード間の移行の瞬間に到達した。
 「かつての直線的思考プロセス」=冷静で集中しており、気をそらされたりはしない直線的精神は脇に押しやられ、代わりに中心へ躍り出たのは、断片化された短い情報を、順にではなくしばしば重なり合うような形で突発的爆発のようにして受け止め分配しようとする新たな種類の精神。
 インターネットで脳の働き方自体が変わってしまった。

◆確かに最近長文を読み書きする能力が落ちたとは私も感じている。また、Twitterにハマっている自分の精神はTL上に飛び交う互いに関連しない膨大なツイートを(別々の文脈を想起しながら)次々に高速に切り替えながら読んでおり、「爆発的」な情報に当面している。これはかなり脳を酷使するのだが、その割に残るものは非常に少ないと感じる。身につまされる指摘だ。

第2章 生命の水路
 脳の可塑性の発見。刺激によってシナプスが変化する。可能性は維持されるが、弊害(依存、悪癖)も起こり得る。

◆脳がいかに刺激に柔軟に対応し適応するか、が詳しく述べられている。スリリングな展開。

第3章 精神の道具
 知的テクノロジー、情報を操るときに用いる道具は我々の精神に使われるものであると同時に、我々の精神に働きかけるものでもある。

◆つまり〈疎外〉的状況が開示されている。言われてみれば当然だが、これまであまり問題視されていなかったのではないか? それだけインターネットの衝撃・影響力が大きいということにもなるのだろうが。

第4章 深まるページ
 文字の発明。本の誕生。活版印刷の発明。記憶の外部化、文字抽象思考の発展。
 読書では高度に活動的で能率的なテクスト解読と意味解釈が深い集中と組み合わさっていた。自力で連想し、自力で推論や類推を行い、自分独自の思考を育てていった。

◆歴史的発展に関する考察が面白い。「読書論」として真っ当なものである、という印象。

第5章 最も一般的な性質をもつメディア
 ウェブは短く、感じが良く、断片的なものが好まれる傾向があり、雑誌や新聞もそれを真似て記事を短くし、要約を付け、ざっと目を通しやすいようにキャッチやキャプションを散りばめた。

◆ウェブの過度に装飾的なリンクだらけの、小さな文章の断片の集積という実態を描き出している。同感。

第6章 本そのもののイメージ
 電子書籍でリンクを挿入し、ウェブに接続(機能が拡大しダイナミックになる)するや、それが何であるかが変化しそれを読むという経験も変化する。電子書籍は本ではない。
 読書の大きな喜びである別の世界つまり作家の観念の世界に没入することが犠牲になる。あちこちから少しずつ情報をかじり取って読むようになる。

◆iPad登場で沸き立つ「電子書籍元年」に冷水を浴びせる章だ。普通の本と電子書籍を比較した実験で、前者の学生の方の成績が良かったという話も出て来る。リンクが思考を乱すようだ。

第7章 ジャグラーの脳
 ネットは注意を惹きつけるが結局はそれを分散させる。速射砲のように発射される、競合する情報や刺激のせいで注意は結局散らされる→誘惑的な朦朧状態へ。
 ネットの有する感覚刺激の不協和音は、意識的思考と無意識的思考の両方を短絡させ、深い思考、あるいは創造的思考を行うのを妨げる。
 ネットにさらされることで、我々の脳は大規模に作り変えられる(→神経学的に重大な結果)。
 リンクをあちこち移動するのに使う時間が静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ、旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し崩壊を始める。脳は使われなくなったニューロンやシナプスを、急を要する他の機能のために転用する。
 リンクを評価して移動を選択せねばならぬので、心的機能の調整と意思決定を行う必要が絶えず生じ、結果テクストなどの情報を脳が解釈することが妨げられるのだ。→前頭野の酷使。
 短期記憶が長期記憶になり体系的図式(スキーマ)となるのだが、ネットでは短期記憶の数は多いが溢れてそのプロセスから漏れてしまう。
 ハイパーテキストを読み解くことは、読者の認知的負荷をかなりの程度増大させ、それゆえ、読んだ内容を理解し記憶する能力を弱体化する。

◆本書の白眉。「ゲーム脳」のような妄説でなく、着実な根拠をもっての論旨と受け止めた。得心させられる。しかも非常に恐ろしい話である。別のところで〈マルチタスク〉の悪影響についても触れられていた。
 今この文章はiMac上のWriteRoomというエディタで書いているのだが、真っ暗な画面に文字だけが浮かび上がるというシングルタスクなソフトなので、とても心地よく集中して書ける(他文書からのコピペは不便だが)。我々は聖徳太子のような超能力者ではないのを痛感する。

第8章 グーグルという教会
 グーグルの、情報の発見・フィルタリング・分配のための強力なツールは、我々が〈直接に関心をもつ〉情報に永遠に溺れ続けるだろうことを約束してしまった。しかも脳が処理できる範囲をはるかに超える量の情報に。
 「知性とは機械的プロセスのアウトプットであり、そのプロセスは区分し測量し最適化しうる個別の段階から成り立っている」という理念を強く信じている。世界の知に関する帝国主義的計画。人工知能実現への強い志向。
 精神はコンピュータのように綺麗に別れた階層ではなく、組織化と因果関係のもつれ合う階層を成している。精神における変化は脳における変化を引き起こすのであり、逆もまた然り。
 精神を正確にシミュレートする脳のコンピュータモデルを作り出すためには「精神に影響し、影響される、脳の全てのレベル」を複製することが必要。我々は脳の階層をまるで解明できておらず、ましてや各レベルがどのように相互作用を及ぼし合っているかなど理解できていない。

◆脳というアナログな器官とデジタルコンピュータとのあまりにも大きな懸隔を思わされる。日本の第五世代コンピュータ開発の試みは頓挫したが、グーグルは人工知能の夢を見ているらしい。それはあまりに素朴なエンジニアの技術信仰なのでは?と思う。
 そこで連想するのが、機械知性が人類を凌駕する時が到来する「シンギュラリティ」というSFのアイディアだが、これも単に量的な発想に過ぎるんじゃないか?という感がする。この宇宙がヒトの脳を作り出すために作られたとする(人間原理)ならば、それを超える知性まで想定できるものだろうか?

第9章 サーチ、メモリー
 生物学的メモリーは有機的に生きており、脳は受け取ったあとも長いこと処理を続け更新され続ける。
 長期記憶は無限とも思える伸縮性を持ち、知性を拡大させる。個人的記憶の代替物としてウェブを使い脳内での固定化の過程を省いてしまったら、精神の持つ富を失う危険がある。
 情報に注意を払い、記憶の中に確立している知と、この情報とを体系的かつ意味あるかたちで結び合わせることによって人間の知性は達成される。
 ウェブを使えば使うほど脳は注意散漫な状態になっていく。
 記憶を機械にアウトソーシングすると、知性さらにはアイデンティティの重要な部分までをもアウトソーシングすることになる。

◆まさにその通り。データはあくまでもスタティック。それを有機的かつ独創的に結びつけ統合し新たな価値を作り出すのは、ヒトの脳内に構築されたスキーマにこそなせる創造性だろう。いちいち個別に外部記憶に検索に行ってたら、そんなことは出来ない。一瞬で脳内に浮かぶ生の身体化された知識でないと、「そこにあるのがわかる」だけのもので、縦横に使えない。

第10章 わたしに似た物
 知的テクノロジーによる疎外により、最も内密で人間的なもの、理性的思考、知覚、記憶、感情が鈍らされる。
 「我々はコンピュータをプログラムし、そののちコンピュータが我々をプログラムするのだ」。
 問題解決などの認知的作業をコンピュータに「外部化」すれば、「新たな状況に適用しうる安定した知識構造(スキーマ)を脳が構築する能力を減じてしまう。
 自然の中でゆったり過ごすことは「認知能力を有効に機能」させるに極めて重要。
 ハイデッガーが人間性のまさに本質とみなした「瞑想的思考」が、計算的思考の進歩の犠牲になるかも知れない。
 コンピュータに頼って世界を理解するようになれば、我々の知能の方こそが人工知能になってしまうのだ。(結語)

◆全くその通り!!全面的に同意する。
 ヒトの適応力はやがてコンピュータを真に使いこなせるように進化するだろう、という楽観論もあることが紹介されるが、いやそれは無さそうだ、と思わされる。むしろ退行が懸念されるわけだ。心胆寒からしむ本である。
 そして、「では、どうすればいいのか?」という処方箋は示されていない。そんな簡単に乗り越えられるものではない問題で、そこまで求めるのは酷ではあるし、著者はラッダイト(機械打ち壊し)的にインターネットに反対しているのではなく、自分自身その恩恵に浴していることを正直に告白し、「後戻りはできない」ことも認めている。しかし、これはこれからのデジタルネイティブの教育も含め極めて深刻で険しい問題であることを痛感する。伝統的古典的教育の価値を見直すべきだろう。孫正義氏の提唱する電子教科書の導入は急ぐべきではない、と思った。電子カルテならさほど深刻ではないか、とも思ったが、医という臨床の知は、軽々にアウトソーシングすべきではないとも思う。
 それにつけても、思うのはやはりTwitterのことである。このままでは「わたしもうじきだめになる」。健康のためやり過ぎに注意することにしよう、そうしよう。
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ask

ダイヤモンド・オンラインに著者インタビューが載っています。↓
「iPad、グーグル、ツイッターでヒトは本当に馬鹿になりつつあるのか~米国の著名テクノロジー思想家ニコラス・カーが語る“ネット脳”の恐ろしさ」
http://diamond.jp/articles/-/9463

あと、理系の側からの批判的読解を見つけました。なるほど。↓
「書評『ネット・バカ』:文系によるネット脳批判書には他人が気付かないヒントが秘められている、かもしれない」
http://hoshi.air-nifty.com/diary/2010/08/post-b1e8.html
by ask (2010-09-22 10:00) 

ask

先ほど(22:00~24:00)、ツイッター上のハッシュタグ #otakingex で岡田斗司夫氏による「公開読書」がこの本について行われていて、参加してました。上のブログ記事を一部コピペするなど、カンニング参加ですが。結構盛況でしたね。
by ask (2010-11-21 00:15) 

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