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「紫色のクオリア」(うえお 久光) [ファンタジー/ホラー/ミステリ]

 幾人かのラノベ通に薦められたので、SFということもあり、読んでみた。いくつかブログやamazonのレビューを見た限りでは評判は上々。
紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

  • 作者: うえお 久光
  • 出版社/メーカー: アスキーメディアワークス
  • 発売日: 2009/07/10
  • メディア: 文庫
クオリア」は茂木健一郎氏が普及させた言葉だと思うが、今やかなり知られているだろう。が、小説のタイトルに使うほどにはまだこなれてなくて、学術用語臭が強いように感じたので、ちょっと違和感があった。そして、この作品の中で使われている「クオリア」は本来の意味とは微妙にズレれている、とも思った。
 以下はネタバレありまくりなので、未読の方はスキップよろしく。

 主人公(というより脇役か)の毬井ゆかりは紫色の瞳の少女で、「人間がロボットに見える」という奇妙な、障害とも能力とも言える感覚を生来持っていた、という設定から始まる。なかなか魅力的な設定で、これが題名の由来なのだが、そもそもこういうのは「クオリア」の問題なのだろうか? もっと認知心理学寄りの話なんじゃないのかな?という疑念が湧いたのだが、あまり詳しくないので、これ以上は展開できない。
 認識のあり方が違う、例えばイヌは臭覚で世界を認識しており、対人認知自体、匂いの違いによるところが大きいわけだが、そのイヌにもイヌなりの質感はあるだろう。それをもってヒトとイヌのクオリアは違う、という議論になるのか?
 クオリアというのは私の理解では、認識の仕方の違いというよりも、知覚を通して脳内に鮮烈に体験される実質としての外界認識のあり方そのもの、というようなもので、その態様のバリエーションやら個々の詳細をことさら弁別しようとする概念とは思えないのだが、茂木健一郎の著作も熱心には読んでいないので詳しくはわからない。(Wikipediaを読むと、この概念はまだ手探り状態の諸説乱立で研究は遅々として進んでいないように思われた。ま、「コウモリの議論」なんてのもここに出て来て、上に書いたイヌの臭覚的世界観もクオリア問題と捉えられるようではある。要は主観の次元の問題であるということなのだが。)
 この作品のゆかりの認識法は〈錯視〉の極端な特殊形態と言う方が合っているような気がする。錯視は脳が外界を認識するときにうまく適応(例えば立体視)できるように視覚情報を脳が「解釈」し「変形」するという基本的なメカニズムの現れで、これあってこそヒトはうまく生き行動できる訳だが、それの極端な変種、みたいなものか、と。
 余談だが、「火の鳥/復活編」で少年レオナ(だったかな?)が大怪我をして再生された結果、ヒトが土くれに見えるようになり、逆にロボット(チヒロ)が人間に見えるようになってしまう、という話を思い出した。
 ま、それはおいといて、ストーリーを追うと、このロボット視、単なる認識の次元ではなく、行動の次元に及んでしまうのである。つまり、ロボットを修理するように、ヒトの怪我を無機物の材料(鉄パイプやら携帯電話機)を使って、治療いや修繕してしまうというトンデモな展開が始まる。しかも素手で、である。これは既に認識レベルの話を超越しており、存在が意識を決定する(唯物論)でなく、意識が存在を決定するという「観念論」である。つまりなんでもありの魔法的ファンタジーの領域になってしまったのだ。
 ここで読者は読み方のスタンスを変えざるを得ない。SFのつもりがファンタジーとは! まぁ、エンタテインメントとしてはファンタジーはとても面白いので、それをどうこう言うつもりは無く、単純に楽しめばいいのだ、ということにして読み進める。
 話は異様な展開を見せる。修理に使われた携帯電話の埋め込みにより、主人公マナブは平行宇宙の自分と連絡が出来るようになるのだ。これもいささか強引な展開であるが、ファンタジーなんだからいいだろう。シュレジンガーの猫、多世界解釈などが説明される。マナブはゆかりを利用しようとする悪の組織から守ろうと、別の自分、別の歴史に介入して〈歴史改変〉を試みるという、度肝を抜くようなスケールの大きな話になる。トライ&エラーの果てしない繰り返し。やがてたどり着くのは、一種の諦観的でなおかつ肯定的な等身大日常への回帰だ。
 これを読んで思い浮かんだのが「セカイ系」というタームである。この作品はこの系譜に連なるものではないか?と思えた。またしてもWikipedia を引いてみると、そこにはこの作者うえお久光の名前も載っているではないか。やはりそうだったのか、と思った。この「君とぼくそして世界」の単純構造は、間に介在する社会に関する視点がすっぽり省かれていることにより、わかりやすいストーリーをもたらして読者は受け入れやすく、それがライトノベル向けなのだろうが、Wikiの中の、
>「社会領域の方法論的消去」とも呼ばれるセカイ系諸作品のひとつの特徴であり、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている。つまりセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であると
という(つまりは知的怠慢)批判には共感するところがある。小松左京のSFの定義に「純文学は個の人間存在を、SFは人類の文明自体の問題を対象とする」みたいなのがあって、私はこれに大いに共感したのだが、その点から言っても、この作品はSFではない。ま、もともとファンタジーではあったんだが。道具立てなんかはガチSFなので、いろんなブログやAmazonなどでもSFとして受け入れ、評価も高いようなのだが、以上の理由で私はあまり評価できない。ラノベ的要素、つまりキャラクタ依存の「萌え」的な部分もいまいち感情移入を拒む性癖が私にはある。(ちなみにこの作品がもたらす脳内映像は、アニメであって実写ではなかった)
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