「痴呆老人」は何を見ているか(大井 玄) [ノンフィクション]
これは凄い本だ。
最初はちょっと扇情的なタイトルに、単純というか無節操な野次馬的気分で魅かれて手にしたのだった。自分にとってはまだ他人事の、しかし今や高齢化の進展でごく身近なことになっている痴呆という状態は一体どういうものなのか、を解き明かしてくれる、いわば「恐いもの見たさ」を満たしてくれる本か、と。
そんな浮ついたものではなかった。ここには極めて根源的な、生と老、人間存在〈自我〉のメカニズム、その社会文化的な文脈との関連、果ては現代社会の直面する難問に至るまでの深い心理学的哲学的考察が展開されていたのだ。
冒頭から引き込まれる。若き日の医師たる著者が遭遇した悲惨な痴呆老人たちとの出会い。それに〈恐怖〉し、決して治せない無力感に襲われ、自信を失い、うつ状態にまで陥った体験。しかし、懸命に接する中で、老人たちの苦痛を和らげることが出来る事に気がつき、そういう医療のあり方に目覚めて自ら癒された、という体験を正直に語る、その真摯で誠実な態度に感じ入ってしまった。
痴呆は老化による記憶障害に始まる。自我を形成し人を人たらしめているのは、言葉と記憶であり、その機能が衰えることにより、世界とのつながりが失われて行く。それによる不安が「情報」よりも「情動」の優位を招き、見た目の痴呆を惹起し、過去の記憶(その幸福な時代)に逃げることで安心と生命を維持するという機序があり、傍目からはとんでもなくボケてしまったようになる。
そもそも世界認識の尺度はその個人の主観的なものであり、なおかつ生きることを最大目的とする自己保存本能としての生命力の発露である。生きるためには人格の変容すらいとわない生命力というものが根底にある、と。様々な事例と、先人たちの探求の足跡を辿ることでそれが明かされて行く。
ところが、考察はそれだけにとどまらない。老いによる痴呆の探求から見えて来た〈つながり〉の喪失という作業仮説は、個人がアトム化されたホッブス的社会(=アメリカ型自立個人主義)の危うさへの警告となる。伝統的倫理が崩壊し、地域や家族のつながりが絶たれた今の日本社会に現れた〈ひきこもり〉もまた同じ機序によるものと解明される。鳥肌が立つような展開であり、非常に説得力を持つ。
超高齢化社会を迎えた日本に住む我々、そしてヒトとしていずれは老いて死ぬ運命にある全ての人間が読むべき本だ。絶対の必読!!
>痴呆は老化による記憶障害に始まる。自我を形成し人を人たらしめているのは、言葉と記憶であり、その機能が衰えることにより、世界とのつながりが失われて行く。それによる不安が「情報」よりも「情動」の優位を招き、見た目の痴呆を惹起し、過去の記憶(その幸福な時代)に逃げることで安心と生命を維持するという機序があり、傍目からはとんでもなくボケてしまったようになる。<
この分析は興味深いですね。痴呆の中には、人間の存在意意義・尊厳があったのですね。思春期痩症、多重人格にも共通する、人間の根本意識の問題、これは私も知りたい分野・話題です。
by アヨアン・イゴカー (2008-02-09 23:54)
アヨアン・イゴカー さん、はじめまして。nice!&コメントありがとうございます。
>多重人格にも共通する
ご明察です。この話も出て来ます。
ご一読ください。
by ask (2008-02-10 09:36)
早速、と言うか少し時間が経ちましたが、私もこの本を丸の内の丸善本店で買って、読んでみました。askさんの仰るとおり、この本は、平易にかかれてはおりますが、実に奥が深い本でした。仰るとおり、必読の書です。
今日は図書館へ行って、講談社新書の『貧農史観を見直す』、『ベルツの日記』を借りてきました。本当は、ウィリアム・ジェームズの『心理学』(岩波文庫)を最初に借りようと思っていたのですが、なかったので諦めました。
私は、この『痴呆老人は何を見ているか』を何度も読み返してみる予定です。人間はどう生きるべきか、考えさせられました。
プエブロインディアンの歌も、華厳仏教的な思考にも似ていて、読み飛ばすことができませんでした。
本当に良い本のご紹介有難うございました。
by アヨアン・イゴカー (2008-02-23 23:50)
アヨアン・イゴカー さん、詳しい報告有り難うございます。
このように受け止めて頂けると書いた甲斐があったというものです。
私もそのうちまた読み直そうと思います。含んでいる問題が非常に広く、深いですものね。
by ask (2008-02-24 12:05)