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「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(内山 節) [ノンフィクション]

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

  • 作者: 内山 節
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/11/16
  • メディア: 新書

 一見するとなんかキワモノっぽいタイトルで、冗談っぽい軽い本かと思って読み始めたら、どうしてどうして、日本人の精神史に関する真面目な考察がなされていたので、〈襟を正して〉しまった。
 大体、私自身の経験としては、キツネにだまされた(というより、「化かされた」というのが正しい表現だと思うが、この本には一切そういう言葉は無く「だまされる」で統一されている)事は全く無いのだが、それは私の幼少時の環境が田舎とはいえキツネが出没するような山奥ではなかったことが大きな理由であって、キツネに化かされるということは全く馬鹿馬鹿しい冗談ではなく、ある種現実味を帯びている〈あり得る話〉のような印象が、遠い幼年期の記憶としてかすかにあるのである。イタチ(これは時々見かけた)に出くわしたら、眉毛の数を数えられないように〈眉に唾〉を付けなくちゃいけない、なんて幼い友人と語り合った記憶もある。だから、「キツネに化かされる」という、今現在から思えば余りにも未開で迷信的で愚かな笑い話でも、真面目な話であった時代がついこの間まであったのだ。
 さて、本書では、1965年頃を境に、日本人にはそれまで当たり前のように経験していた〈キツネにだまされる〉ということが無くなった、という。なぜそうなったのか?という理由について、いくつかの考察がなされる。高度経済成長、科学の優位性、テレビと電話の普及によるコミュニケーションの変化、進学率の上昇、死生観の変化、自然観の変化、森林開発による老ギツネの消滅、などなど。(最後のは別として)それぞれ客観的に頷ける話である。この頃の日本人の精神に起こったのは「革命的」とも言うべき変化だと言うのだ。
 それまで自然と一体となって暮らして来た日本人は、この時期に生活の利便さ豊かさのために、キツネに象徴される自然との豊穣な交流を断ち切ってしまった、というわけだ。これは非常に理解出来る話である。そして、それに続く〈歴史認識〉についてのラディカルな指摘、つまり、「正史」あるいは「国史」として整理された日本の歴史というものは、あくまでも〈知性〉のレベルだけで編纂され、〈制度〉の変遷に偏した一直線に発展進歩するという歴史観の下に造形されたものであって、そこでは見えない豊かな自然や神仏の存在、生命の循環的、常民的(という言葉は出て来ないが)な要素というものが捨象されてしまっているのだ、と。
 この本は、一種ノスタルジーを帯びており、失われた良き世界への哀惜も漂う。私自身、科学的世界観にのみ依拠して来たことを少し見直さないといけないのかも、という気持ちにさせられた。こんな世界はもはや滅びてしまっているのだが、近代が様々な行き詰まりを見せている、未来が不確実なこの時代にあっては、単純な復活というのではなく、こういう見えない歴史の要素に対する感受性の貴重さというものがあるのではなかろうか?


タグ:日本人
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